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鄭陳桃の証言

従軍慰安婦

四 原告 鄭陳桃

1 連行まで

 原告鄭は、一九二二年一一月一四日台北市で生れる。母親は原告鄭が三歳のときに亡くなり、父親が再婚したが同人も原告鄭が七歳のときに死亡した。以後継母と叔父に育てられる。中学(高等課)にすすんだが、戦争の為これを中退した。一六歳の時に叔父と継母は原告鄭を板橋(台北近郊)の林金という者に売買した。林金は原告鄭に客を取るよう強要したが、原告鄭が「酒の相手ならするが客をとるのは嫌だ」と拒否すると、台南塩水の柯鼻という者に売り渡した。柯鼻は「月津楼酒家」という酒場を経営しており、原告鄭はそこで働いた。一七歳から一八歳にかけての頃、原告鄭は新竹の叔母の処に逃げたことがあるが、連れ戻され、再び同所で女給として働かされた。ここでは酒の相手をするが、客(性行為として)をとることはなかった。

2 連行の状況

一九四二年、原告鄭が一九歳のときに柯鼻は原告鄭を魏という高雄の者に売り渡した。魏の妻は、原告鄭に対して看護婦の助手として読み書きのできる人が必要だからといって(原告鄭は読み書きができた)、アンダマンに行くことを指示した。二年間という説明であった。二一名の女性が一軒の旅館に集められ一週間程待機した後、同年六月四日高雄から日本の貨物船に乗船した。途中ペナン等に寄り、アンダマン(インド洋上の島)に上陸した。魏の妻も同行した。

3 アンダマンでの状況

アンダマンは小さな島であり、海岸線に日本軍の基地があり、現地人は山間部に居住していた。日本軍と現地人との交流や接触は一切なかった。近くには集落といえるものも無かった。原告鄭の感じでは二千人位の兵隊が駐屯していた。部隊名は石川部隊といい、イー一九 或いはイー一七の番号がついていた。基地は囲い等はなく、軍用の建物が幾つかあり、その中の一つが原告鄭等女性用として割り当てられた。この建物は二四部屋あったが、現地に到着した女性は一八名であり、各部屋を割り当てられた。原告鄭の部屋は三号であった。尚、先に居た女性はいない。上陸後すぐには何もなく、五日目位に魏の妻が原告鄭らを集めて「慰安所」であることを話した。女性らは魏の妻に話が違うといって食ってかかったが、同人は金は払ってある、親には話してある等といっていたが女性らは納得せず、魏の妻は大隊長を呼んできて、同人から威嚇的にここは「慰安所」であるとして諦めるよう説得させた。魏の妻も今度は哀願調になって諦めなと諭した。原告鄭らは離島から逃げ出すこともできず諦観した気持ちで応じざるを得なかった。ここでは、女性は番号を付けられ互いにその番号で呼ぶよう言われた。又日本名として原告鄭は「モモ子」と付けられた。魏の妻が管理人も兼ね他にもう一人の日本人の老女がいた。軍人は管理人の処で札を買いそれを持って部屋にきた。原告鄭には前借金があるといって金が渡されることは無かったが、軍人からチップを貰うことはあり、これは個人で貯めていた。毎月曜日に基地の病院で性病検査が軍医によって行われた。外出は禁止されてはいなかったが、所詮離島のことであり、禁止は意味のない状況であった。一週間に一度位の休みがあり、軍人が車で島巡りに連れ出すことも有った。それでも身体的にも耐えきれず森に隠れたこともあったが、直ぐに探しにきて連れ戻された。

一年二カ月が過ぎた頃、新しい女性と交代するとのことで、他に移動することとなった。魏の妻と七人程の女性がジョホールに移った。一八名の中、一名は死亡、他は島に残った。

ジョホールでの状況

一九四三年秋、原告鄭らは前述のとおりジョホールに移された。海軍旗を付けた船で移動し、同地に上陸し、日本軍の管理地域の中にある倉庫用の建物に入れられ、ここで更に船を待つ様言われた。ここは、ゲートもありその外へは出られなかった。軍隊から三度の食事が届けられ只待っているのみであった。しかし、一カ月経ても船は来ず、女性達も次第にすさんだ精神状態になった。チップを貯めた金も軍の酒保で遣い果たした。魏の妻に対し台湾へ早く返すように要求したが、同人はサイパンに行く予定だと言っているのみで、その船もなく、「見晴荘」なる「慰安所」へ売り込もうとしたが、女性全員が拒否して諦め、挙げ句魏の妻は姿を消してしまった。ここで四カ月経ったころである。七名程の女性は金もなくなり途方に暮れていた。倉庫で世話をしていた兵隊の勧めで見晴荘にいったらどうかと言われ、止むなく、見晴荘に行き当面の必要な金として七名で一二〇円を借り、結局ここで「慰安婦」として居ることになった。「見晴荘」も軍の管理地域の中にあり、建物自体には監視の兵は居なかったが管理地域の境には兵の監視があり、シンガポールへの渡橋は禁止された。ジョホールの町へは外出できたが、所詮行き場所の無い孤立した地域であった。「見晴荘」は勿論軍人のみが出入りできるものであり、下野なる日本人が管理人をし、他に経営者がいたようである。他に広東や朝鮮から連れて来られた女性が総勢三〇名程居た。毎日一〇人から多いときは二〇人の相手をさせられた。しかし、ここでは、一二〇円を返し終わってからは軍人が払う金の中から一部が原告鄭らにも払われた。原告鄭はこれを軍事郵便貯金にし、総額で一八〇〇円程を貯金した。尚、この貯金は一九九八年になって交流協会を通しての請求により、日本政府から一八二九米ドルがやっと支払われたのみである。
ジョホールでは、原告鄭ら七名程の女性は、金も無く、頼る者もなく、台湾へ自力で帰る術を全く持たない状況で放置された。「見晴荘」に原告鄭らが行ったことも、結局生きる為の止むを得ない決断であり、強いられた結果となったものである。

5 帰国の状況

一九四五年七月、「見晴荘」に客として通ってきていた山口看護長と称する者が、原告鄭らを帰国させようと努力してくれた。軍病院に所属する者らしく、疾病証明を偽造してくれ、赤十字の病院船に乗船できる手配をしてくれた。これにより、原告鄭は他の二名の台湾人女性とともに八月上旬高雄に帰還した。高雄の病院に一週間程収用され、その後台北に帰った。丁度敗戦の日の頃であった。

6 帰国後の生活

台北に帰って叔父と継母に会ったが、叔父は原告鄭が「慰安婦」であったことを知り軽蔑した態度を執った。原告鄭は、叔父や継母が原告鄭を売るようなことが無ければこのような境遇になることも無かったと彼らを恨み、一カ月足らずで台北を離れ、以後彼らには二度と会っていない。その後花蓮で住み込みの炊事の仕事(当時は飯炊きといわれた)をし、更に台東にでて裁縫を覚えて洋裁の仕事をしたりして生計を維持していた。二八歳のとき以前塩水で知り合った者と再開し結婚したが、子供ができないといって離婚された。その後は放浪して高雄で飯炊きの仕事等をしたが、更に屏東に移り、四五歳のときに鄭標と結婚したが、その夫も一〇数年前になくなった。子供は出来ず、この夫には過去のことは全く話せなかった。現在は、知り合いの厚意で倉庫の一室に居を得て一人で暮らし、老人年金と政府からの補助金で生計を維持している。

http://www.awf.or.jp/pdf/194-t1.pdf