盧滿妹の証言

二 原告 盧滿妹

1 それまでの生活

原告廬は一九二六年(大正一五年)九月二九日に新竹県湖口郷の出身父盧慶彬、母盧羅六妹の間に出生し三歳の時に父のいとこの家に養女として売られ養父盧金火、養母盧荘茶妹に育てられた。実親養親とも他家の茶摘みをしながら傘を売って新竹県近辺を転々として生活しており出生した場所は不明である。原告盧は新竹の関西で小学三年の一〇歳まで通ったが、読み書きはできない。
養父母は双方とも五〇歳を過ぎていたので原告盧も傘を売る仕事や茶摘みの日雇いをして家計を支えたが生活は、大層貧しいものであった。

2 徴集時の状況

原告盧が一七歳(一九四三年)のころ、竹北で旅館を経営していた鐘が、海南島の日本人のやっている食堂が給仕を探していて、台湾で働くよりも給料は高いし、一年だけでもいいと誘われたので、原告盧は海南島に行くことに決めた。当時、生活が苦しかったので、給料が高いということに心が動いた。
仕事は食堂の給仕で料理を運んだり掃除をしたりするということだった。

3 連行の場所やその状況

高雄へまず連行されたが、そのとき旗山、台北、新竹などの出身の女性を三〜四〇人鐘がつれて行き、高雄で日本人の子供連れの夫婦に代わった。
高雄から乗ったのは軍艦で、一週間ほどで海南島の檎林に到着した。
檎林で船を下りてトラックと徒歩で紅砂まで行かれた。
到着した所には、まだ建物もなかったが、一週間後に通路を挟んで両側に小さな部屋が二〇〜三〇ある建物が建ってゆき、その一部屋を当てがわれた時、初めて原告盧が連れて行かれた所が食堂ではなく「慰安所」だということを知った。その場所は元墓地で骨が出た。建物は、日本式の宿舎で、板で仕切られ畳の寝床があった。

4 連行場所での生活状況

慰安所」は日本人夫婦の男が管理しており、この男の額に大きな瘤が一つあり兵隊ではなく、原告盧らはこの男を「ガンリュウー(柑瘤)」「ボス」と呼んでいた。「慰安所」内には三〇人余りの女性がいて、一人一部屋ずつ押し込まれた。台湾人が殆どで日本人もいたが、互いの付き合いはなかった。
原告盧は仕事というのが性的行為であることは小部屋に入れられたことでわかった。わかったところで泣くだけで、それを断っても逃げて行くところもなかった。それでも当初抵抗したが無駄だった。
それは、いきなり札を持った兵隊に来られて始まったが、とても恐ろしかったが、ひたすら我慢した。
日本人の夫婦の男性(原告盧らはボスと呼んだ)が厚紙でできた「札」を兵隊に売って兵隊は札を持って原告盧らのところへ来た。原告盧に話をする者も一〇人に一人くらいいたが、多くは何も言わずに強姦して行くだけだった。朝八時ころから昼も夜も軍人が来て、軍人の中には朝まで泊まっていく者もおり、断ることはできない。相手は将校、兵隊の軍人で、すべて日本人で車に乗って来る者が多かった。
付近には「慰安所」はほかになく『ケイナンショウ「慰安所」』『ホンサ「慰安所」』という名称で呼ばれて看板は「慰安所」となっていた。
札をいらないと言ってビンタされた人もいたが、原告盧は一年か一年半の我慢と思いひたすらおとなしくしていたので乱暴されたことはない。
海南島で、「サック」を使ってはいたが原告盧は妊娠した。すぐに家に帰りたいと言ったが、妊娠八ヶ月まで客を取るよう強制された。
檎林には海軍病院があって、医者が何人かいて原告盧らは一週間に一回検査につれて行かれて病気があれば休みになった。生理の日は休みがとれることもあった。檎林港に検査のとき買い物に行ったりしたがそれ以上の自由はない。

5 帰郷

一九四四年、原告廬が一八歳で妊娠八ヶ月を過ぎた時、医者が証明書を書いてくれて台湾に帰る事が許された。お腹が大きくなって利用価値がなくなるまで利用された。また当時原告盧はマラリアにかかっていた。原告廬は自分で九九元の船賃を支払い、大きな船で直接基隆まで戻り、家に帰った。
台湾に戻ってから一一月に生んだ子供は生後三八日で亡くなり数日後に紹介で養女をもらい受けた。また台湾へ戻って間もなく父が亡くなり、半年後に母も死んだ。台湾に戻ってみたら原告廬が海南島に行ったこと、そこで何をしたかと言うことを周りの人が知っていて原告廬の評判はとても悪いものだった。その後は工事現場の日雇い仕事をして暮らし、二七、八歳の時に新埔に引し、三八歳の時に人に紹介されて結婚した。結婚相手は最初は良くしてくれたが、原告盧の過去を知るとうまくいかなくなった。
小児麻痺の息子がおり、三〇歳で、原告と一緒に暮らしており原告盧は他家の洗濯や子守などの仕事をして働いているが生活は苦しい。
当時、原告盧は、「慰安婦」にされると知っていたらは海南島には行かなかったのであり、その後の苦しい生活、悲しみはなかったと思うと今も日本人を深く怨み日本の政府には謝罪と賠償を求めている。

http://www.awf.or.jp/pdf/194-t1.pdf