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高寶珠の証言

従軍慰安婦

一 原告 高寶珠

1 招集される前の生活

一九二一年九月一七日に台湾省台北県淡水鎮で生まれ三歳の時に父が、一五歳の時に母が亡くなっている。そのため、原告高は幼い頃から母の洗濯や裁縫の仕事を手伝っていたので学校にはいっていない。一五歳のころから江山楼という店で歌を歌う仕事をしながら、結婚していた姉夫婦と一緒に生活し、姉の夫から実の妹のようにかわいがられて平穏な生活をしていた。

2 徴集時の状況

(1) 一九三八年一七歳になったとき原告高は、将来のことを考え養女をとったが、養女をとって間もないころ役所から原告高への招集の通知がきた。その通知には広東に行って日本軍のために働くようにという指示と、集合場所と集合の日付が記載されてあるだけだった。原告高は、どんな仕事をするのか役所に聞いたが、広東にいけばわかると言われたのみで仕事の内容は教えられなかった。通知を持ってきたのは以前から役所にいた「ほくろに毛」と呼ばれる人物で集合場所の台北に原告高を送り届けている。
(2) 台北の駅には一八人くらいの女性が召集されており「ほくろに毛」の役所の人は基隆まで汽車に同行している。基隆からはは船に乗って広東に送られた。この頃、広東は第一回の戦闘が終わったばかりで原告高らが船から外を覗くと死んだ人が海の中に浮かび、また広東についた後トラックに乗せられ仏山というところに連れて行かれる間も道に死体がたくさんあるのが見える状況であった。

3 「慰安婦」とされた時の状況

(1) 広東からトラックで到着したところは金山寺という場所で、その場所には「慰安所」と書いた看板が掲げられてあった。この看板を見て原告高ら女性たちは何をするのかわかり、泣き悲しだが、故郷から遠く引き離されかえる方法もなく頼る先もなかったためにどうすることもできず、性行為を強制されるという苦役に服さざるを得なかった。
(2) その後、軍隊の移動に伴われ、香港から陸軍の船でシンガポールを経てビルマに連れて行かれた。途中原告高の乗った船が潜水艦の攻撃を受け、原告高はその轟音で右の耳の聴力を失っている。ビルマまでは三ヵ月ぐらいかかっている。

ビルマの「慰安所」での生活

(1) ビルマに着いてからは、軍隊のトラックに乗せられ山奥まで連れて行かれた。そこには真新しい「慰安所」の建物が二棟建てられてあった。台北に招集された一八人はここまでずっと一緒であったが、原告高らの後から朝鮮から連れてこられた女性たちも着いて、もう一棟の「慰安所」の建物で性行為を強制されいていた。「慰安所」があった場所は、原始林の中で、兵隊たちは三〇分かけて徒歩で通って来ていたが、原告高らは、女性であり身支度もなく、戦争中で安全な道などないことから、柵が無くとも逃げ出すことはできなかった。食事も、軍隊から米・野菜を支給されて、原告高ら女性たちが自分たちで作り、必要な買い物も兵隊に頼んでラシオやランカンで買ってきてもらうしかないという、外部とは隔絶された監禁状態で、全生活を軍隊に支配されていた。この「慰安所」を利用した部隊の名前はタツ部隊であった。
(2) 「慰安所」は、台湾のおばさんとお姉さんと呼んだ女性二人と九州から来た日本人のおばさんと呼ばれる女性の三人で管理していた。兵隊は二元、将校は四元払っていたが、女性たちには一〇日に一度清算して支払われていたが、原告高が留守宅に送金した金銭は届いていなかった。身体検査は、日本の軍医が月に三回位来ている。土曜日曜は大勢の兵隊が来て特に酷使されていた。将校が夜宴会を開くときにも動員されている。

5 ラングーンへの移動と慰安所での生活

更に、何年かして戦況が厳しくなった中、日本軍の駐屯地からの撤退に伴い女性たちは幾つかのグループに分けられて、軍隊の車に乗って移動し、原告高は約一日かかってラングーンに移された。賑やかな町であったが、新しく「慰安所」の建物が作られ、原告高らはここでも日本人軍の兵隊の性処理の道具という苦役につかされている。この場所も、日本軍専用の「慰安所」として運営されていた。ここには一年から二年拘束されている。この「慰安所」に移されたころには台湾から一緒だった一八人は七人か八人になっていた。分かれた女性のなかには「タツ」部隊と一緒に山奥に移動した者もいた。

6 敗戦と帰郷

原告高らは戦争が終わった後、憲兵ベトナムに行って船を待てと指示され、憲兵隊の高官の指示でベトナムに移動している。憲兵から通行許可証と腕章を与えられている。原告高らはベトナムで船を待っている間に日本の許可証を持っていたことから日本人と思われ抑留されそうになったが、台湾の高官が中国人であることを説明したので抑留はされずに済んだ。しかし、帰還船に乗船する際、西洋人が来て検査し、金や荷物を取り上げたために原告高は、この時手元に五元だけ残して全財産を失っている。台湾には一九四七年に帰っている。原告高が召集の通知で台湾を出てから八年も経っていた。台北に集められた一八人のうち帰ったのは四人のみであった。一四人が命を失ったり、故郷に戻れないままになっている。

7 帰郷後の生活

原告高は台湾に帰ったが、送金した金銭が留守宅に届いていなかったりしたこともあり、また、せっかく縁組みをした養子も幼いときに別れ、育てていないので親子の情がわかないままであった。原告高は、酒家で働いたりした後、生活のために九人の子供のいる男性と結婚したが、悲惨な体験を癒すすべもないまま今日に至っている。

http://www.awf.or.jp/pdf/194-t1.pdf