東京初空襲・浙かん作戦

1942年4月18日、米空母ホーネットから発艦した陸上爆撃機B-25ミッチェル16機が日本本土を初空襲した。ドーリトル空襲である。B-25は爆撃後、空母に帰還することなくそのままソ連・中国へと飛び去った。日本海軍はこの空襲を機にミッドウェイ攻略作戦を発動し、一方の日本陸軍は中国側の着陸基地を破壊するための作戦を敢行した。この作戦を浙かん作戦(浙贛作戦)という。浙江省江西省(別名:かん(贛))にまたがる地域が作戦地域となった。作戦は1942年5月から9月にかけて7個師団約12万の兵力を用いて実施された。
一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。

作戦はまず、杭州から第13軍(第116師団、第15師団、第22師団、第70師団、第32師団)が西進することから始まり、遅れて南昌から第11軍(第3師団、第34師団)が東進を開始した。西進する第13軍(沢田茂)に対し、中国軍第三戦区(顧祝同)は第25集団軍(李覚)第88軍(何紹周)と第32集団軍(上官雲相)第28軍(陶広)が蘭渓、金華の線で防衛を展開、日本軍第13軍は第70師団(内田孝行)、第15師団(酒井直次)を蘭渓、金華攻撃に充て、5月28日、酒井師団長が地雷に触れ戦死するなど多くの損害を出したものの金華占領に成功している。
その後、日本軍第13軍は衢江北岸と南岸に分かれて西進を再開、これに対し中国軍第三戦区は衢県に第86軍(莫与硯)を配置し、第32集団軍(上官雲相)第25軍(張文清)を北の山岳地帯へ、第26軍(丁治磐)を南方の山岳地帯へ後退させ、衢県に進攻する日本軍を包囲する態勢をとった。6月3日、日本軍は第15師団(山内正文)、第22師団(大城戸三治)、第32師団(井出鉄蔵 )で第86軍の篭る衢県に総攻撃を開始する。第86軍は4日間善戦したが、6月7日に衢県が陥落する。
5月30日に南昌から東進を開始した第11軍の第3師団(高橋多賀二)、第34師団(大賀茂)に対して、中国軍第九戦区(薛岳)麾下の第4軍(欧震)、第79軍(夏楚中)、第58軍(孫渡)が防戦するが6月5日には臨川、6日には東郷が陥落し、13日には鷹潭西方で激戦を展開したものの、16日には鷹潭が占領され、翌6月17日には貴渓が陥落する。南昌南方地区で日本軍が占領した地域は6月中旬以降、中国軍第九戦区の反撃により日本軍が順次撤退し失地を回復している。
第13軍第22師団は西進を続け、6月11日江山を占領し、13日広豊を占領、金華から撤退した第49軍(王鉄漢)の背後に迫った。衢江北岸を西進した第32師団は6月9日に常山を占領し、6月11日には玉山、6月15日には上銭を占領している。
日本軍は6月下旬に入って戦列を整え進攻を開始し、7月1日、横峰で合流する。第13軍麾下の第70師団は金華攻略後、西進部隊と分かれて南進を開始して6月24日、麗水を占領している。7月9日には青田を占領し、7月11日には温州を占領して東シナ海に到達した。これにあわせて日本海軍も陸戦隊を温州や瑞安に上陸させて占領している。
その後8月下旬になって、日本軍は浙かん鉄道のレールを撤去し、各地の飛行場を破壊し、各所で掠奪を行いながら撤退を開始し蛍石産地の中心金華まで後退する。これに乗じて中国軍は反撃を開始し、放棄された占領地は回復し、中国軍は失地のほとんどを奪回した。
日本軍はこの一連の戦役で約1万7000人の戦死傷者を出している。

日本軍は金華から杭州までは鉄道を運行させている。占領した鉱山では中国軍捕虜を使役する予定であった。
なお、この作戦には関東軍731部隊と南京栄1644部隊が参加し、8月頃に玉山、金華、浦江の諸都市付近でペスト菌コレラ菌、パラチフス菌等を撒布しており*1、これによる被害を受けた日本兵も少なくないと言われる。