第一戦区の概略

1937年8月

河北省、山東省の日本軍に占領されていない地域を主要な戦区範囲として成立。戦区司令長官には当初、蒋介石が兼務したが第二次上海事変が激化すると蒋介石は第二次上海事変に専念せざるを得ず、戦区司令長官を程潜*1に交代する。
戦区麾下には、宋哲元の第1集団軍、劉峙の第2集団軍、衛立煌の第14集団軍が編成された。

1938年1月

上海・南京が陥落し、華北での日本軍優勢が確定すると、日本軍は南北から中国軍分断を図った。このため、戦区編成を修正し、第一戦区は平漢鉄道沿いの地域を担当するようになる。麾下には、商震の第20集団軍と宋哲元の第1集団軍がおかれた他、綏遠から撤退してきた第68軍(劉汝明)、太原から撤退した第17軍所属第21師から再編成した第92軍(李仙洲*2)が配属された。

しかし、徐州が陥落し日本軍が開封まで侵攻すると、第一戦区の担当範囲は河南省安徽省の一部にまで減少してしまう。

1939年

徐州会戦後の武漢攻防戦に参加した商震の第20集団軍が第九戦区へと移動し、第1集団軍は解体したため、改めて山西省を失った閻錫山の第二戦区麾下の衛立煌を第一戦区司令長官とし、山西省南部に留まっている第14集団軍(衛立煌)、第3軍(曾万鐘)や孫連仲の第2集団軍を第一戦区の中核とし、第五戦区からの孫桐萱の第3集団軍を加えて再編成を行った。
担当範囲は河南省及び安徽省の一部。

1941年

中条山会戦で山西省南部の第14集団軍、第3軍を含む第5集団軍が壊滅し、衛立煌は司令長官を罷免される(1942年1月)。

1944年

蒋鼎文司令長官の第一戦区は、麾下に第15集団軍、第19集団軍、第28集団軍、第31集団軍、第4集団軍、第14集団軍(残部から再建)、第36集団軍、第39集団軍を持ち河南省を守っていたが、大陸打通作戦の一環である豫中会戦で敗北し、陝西省南部へと後退する。
1944年冬、司令長官は胡宗南に交代し、麾下兵力は第28集団軍、第31集団軍、第4集団軍、第34集団軍、第37集団軍、第38集団軍に再編された*3

1945年

老河口作戦(豫西鄂北会戦*4)で、第一戦区は第31集団軍、第4集団軍を主戦力とし、第五戦区と協力しつつ、日本軍の侵攻を撃退した。