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中原会戦(百号作戦)・晋南(中条山)会戦関連資料

1941年 中条山会戦

 昭和16年(1941年)5月7日、北支那方面軍は、山西省重慶国民政府軍を攻撃する、中原会戦(百号作戦)を開始しました。
 資料1は、北支那方面軍の田辺盛武参謀長が木村兵太郎陸軍次官に対して送った、百号作戦に関連する昭和16年6月4日付の通牒です。この通牒は、百号作戦の作戦名称を「中原会戦」とし、作戦の期間を5月1日から開始したと通知しています。
 資料2は、田辺参謀長が木村陸軍次官に送った6月15日付の通牒です。こちらは、中原会戦を6月15日を以って終了したことを通知しています。
 資料3は、北支那方面軍(岡村寧次方面軍司令官の名前から「岡村部隊」と呼ばれました)の参謀部第2課が作成した、中原会戦の際に日本軍の捕虜になった中国軍人に対する尋問の調書の一部です。

http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410507a.html

資料1:C04123056000 作戦名称及期間の件(1画像〜2画像)
「作戦名称及期間ノ件通牒」

資料2:C04123056000 作戦名称及期間の件(3画像〜4画像)
「中原会戦期間ニ関スル件通牒」

資料3:C04123313400 中原会戦俘虜調査報告7部(1)(2画像〜50画像)
「中原会戦俘虜中主要幹部取調内容(其二)」

独立混成16旅団独立歩兵84大隊兵士の証言

1941(昭和16)年 中原会戦
 黄河唯一の渡河点の占領を命じられるが猛反攻で多数の死者を出す。

http://www.jvvap.jp/kaneda_mitsurou.html

その他

中条山会戦(中国語)

中条山会战(日方称之为“中原会战”)是抗日战争进入相持阶段后,正面战场国军在山西范围内的唯一一场大规模对日作战。会战历时一个多月,中国守军伤亡惨重。被国民政府视为“最大之错误、亦为抗战中最大之耻辱”。一群清一色的号称“冷娃”的陕西子弟兵,在中条山坚持抗战近三年,先后粉碎了日军的11次大扫荡,把不可一世妄言三个月占领中国的日本鬼子拒阻于潼关以外,使其进入关中掠占西北的梦想死于胎中。抗战八年,日军占据了东、南、北大片领土,却一直无力西进,这一切都得之于中条山战役的伟大胜利。日本鬼子不仅未能踏进潼关一步,而且付出了惨重代价,仅“6·6”会战一役,日军排长以上军官的骨灰盒层层叠叠垒堆了1700多具。这是八年抗战中取得重大战果的战区之一。在中条山坚持抗战近三年,陕西子弟兵有2.1万人牺牲在中条山下、黄河岸边。[1]

http://baike.baidu.com/view/157442.htm