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百団大戦

1940年 百団大戦

日本軍は1940年、次々と華北に増兵し、各抗日根拠地を立て続けに掃蕩した。日本軍は、「治安粛正」計画の推進に力を入れ、華北の抗日根拠地を徹底的に粉砕し、占領地域を固めようとした。こうした情勢の下に、八路軍本部は、晋察冀軍区、晋綏軍区、晋冀魯豫地区の部隊を統一指揮して、正太(正定=太原)鉄道を重点とする華北の主要交通沿線で大規模進攻作戦を行った。この戦闘には105の団(連隊)が参加したことから、史上「百団大戦」と呼ばれている。

八路軍本部は7月22日、「作戦準備命令」を下すとともに、それを党軍事委員会に報告した。8月8日、「作戦行動命令」が下された。同作戦は八路軍本部が直接指揮することになり、8月20日から全面的進攻が開始された。戦闘はまず正太線沿線から開始され、のちに、華北地区と主要な交通路線へと急速に広がった。これらの地区には、日本軍の3個師団と二つの師団の2個連隊、五つの独立混成旅団、四つの混成旅団の各2個大隊、一つの騎兵旅団の2個大隊が駐屯し、その全兵力は20万人を超えた。そのほかに150機の飛行機とかいらい軍15万人がいた。

八路軍の参戦兵力は、晋察冀軍区の39個連隊、第120師団の20個連隊、第129師団の46個連隊、計105個連隊、20余万人であった。そのほか、地方ゲリラと民兵が参加した。

作戦は主に三つの段階に分けられた。まず、最初の10日間は、晋察冀軍区の第129師団が主に正太線沿線の敵軍を攻撃した。あとの10日間は、日本軍が反撃を展開し、八路軍は正太線沿線から撤退し、晋察冀軍区の部隊は正太線以北の孟県地区に進出し、第129師団は「掃蕩」中の日本軍を攻撃し、第120師団は晋西北で協力作戦を行った。第2段階では、晋察冀軍区の部隊は主に?霊作戦を行い、第129師団は主に楡遼作戦を行い、第120師団は主に同蒲鉄道沿線の敵軍を攻撃した。第3段階では、八路軍本部は「反掃蕩」作戦命令(晋東南の反「掃蕩」、晋察冀辺区の反「掃蕩」、晋西北の反「掃蕩」を含む)を下した。

百団大戦は1940年8月20日に始まり、1941年1月24日に終わるまで、5カ月以上にわたった。8月20日から12月5日までの3カ月半だけで、大小さまざまな戦闘が1824回も行われ、日本軍は2万645人、かいらい軍は5155人の死傷者を出し、日本軍281人、かいらい軍1万8407人が捕虜となり、日本軍47人が降伏し、かいらい軍1845人が寝返った。鉄道474キロ、道路1502キロ、橋梁・トンネル・駅260カ所が破壊され、523カ所のトーチカが爆破され、大砲53問、小銃5800梃を捕獲した。この戦役で、八路軍は死傷者1万7000余人を出した。

http://www.bjreview.cn/JP/jp2005/2005-wj/2005-34/2005.34-kangzhan60-1.htm