平型関の戦闘

日本軍は北平、天津を占領したのち、華北地区への大規模進攻を意図した。1937年9月、日本軍第5師団は山西省の渾源、霊丘に向けて進攻し、平型関・茹越口の要衝を突破しようとした。

八路軍第115師団は、山西省東北の抗日前線に転戦せよとの命令を受け、林彪、聶栄臻の指導の下に、平型関以西の大営鎮に移動し、侵攻してくる敵を迎え撃つ準備を整えていた。平型関のふもとから霊丘県東河南鎮までの間には、西南から東北へと伸びる峡谷がある。この峡谷は深く、狭く、険しく、敵軍を待ち伏せするにはもってこいの場所だった。八路軍本部は9月23日、第115師団に、平型関、霊丘の間に出動して、敵を側面から攻撃せよとの命令を下した。作戦の奇襲効果をあげるため、各部隊は秘密裏に行動し、夜間雨をおかして待ち伏せ陣地に入り、25日払暁、すべての作戦準備を完了した。

明け方、日本軍第5師団第21旅団の一部と大量の軍需品を積んだ車両が、霊丘から平型関までの道路に沿って西へ進み、7時ごろ、その全部が待ち伏せ地帯に入った。道路が狭く、雨あがりのぬかるみのため、車両、人、馬がおしあいへしあいし、行動がにぶった。八路軍第115師団はこの有利な戦機をしっかりつかんで、敵軍に一斉射撃を加え、敵の混乱につけ入って突撃し、多くの死傷者を出させた。敵は重大な損害を被りながらも、優勢な火力をたよりに抵抗したが、いずれも撃退された。日本軍第5師団長の板垣征四郎は、尉県、?源に駐屯している日本軍に、平型関を救援するよう命じたが、救援軍は霊丘の東北地区で、第115師団独立連隊、騎兵大隊に進撃を阻止された。

この激戦は午後1時まで続き、第115師団は日本軍の精鋭、第5師団第21旅団の千余人をせん滅し、小銃千梃余り、機関銃20梃余りを捕獲するとともに、自動車百台余り、馬車200両余りを破壊し、全面的抗日戦争の開始以来、はじめてせん滅戦の勝利をかちとった。この勝利は、「日本軍は不敗」という神話を打ち破り、全中国人民に中華民族の希望を見てとらせ、戦争に勝てるという全国人民の自信を強めた。

http://www.bjreview.cn/JP/jp2005/2005-wj/2005-34/2005.34-kangzhan60-1.htm