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第二次五原作戦(第二次後套作戦)の雑感

1940年

第二次五原作戦は、1940年1月〜3月に実施された第一次五原作戦で日本軍が占領した五原を傳作義率いる第35軍が3月20日に奪回攻撃を行い、日本軍の本格的反撃前に撤収した戦いである。
後套進攻作戦 - Wikipedia
傳作義(中国語)

傳作義軍の五原攻撃時、五原には日本の正規軍は不在で、特務機関や警察隊、内蒙古政府軍により防衛されていた。五原攻防戦では2昼夜で日本軍特務機関、警察隊はほぼ全滅している。

五原事件
 駐蒙軍は五原を挟んで傳作義軍と対峙していた。大本営からは包頭以西の侵攻は禁止されていた。駐蒙軍は王英を支援して綏西警備軍を編成させ、傳作義軍を挑発する。シラムレン事件のやり直しである。綏西警備軍はたちまちのうちに三千名近くに膨張し、綏西聯軍と呼ばれる。
 一九三九年傳作義軍は大挙して包頭を襲撃する。この機に乗じ、侵入した傳作義軍を掃討する名目で一九四〇年一月、第一次五原作戦が開始される。駐蒙軍は二月三日、五原を占拠し、特務機関、警備隊、綏西聯軍に治安維持を任せる。この第一次五原作戦に田尻師が配属されていた五当召の警備兵約二百名のうち百名が田尻師を指揮官として綏西聯軍の指揮下に入る。この時根本師は急ぎ多倫から田尻師の応援に駆け付ける。
「五当召の兵をなぜ日本のために使うか!」
 田尻師は憤慨する。黄河河畔の田畠橋まで出撃し、傳作義軍を後套(五原の西)へ追いやる。三月二十日夜、反撃体制を整えた傳作義軍は五原奪還に押し寄せる。迎え撃つのは治安維持にあたっているごく少数の特務機関、警備隊、綏西聯軍である。たちまちのうちに特務機関は全滅し、警備隊と綏西聯軍はちりぢりになった。田尻師と根本師は少数の兵隊とともに逃げ延び、草原の中で一夜をあかした。早朝、運よく五原からの撤退兵と合流し、包頭にむかって敗退する。急を聞き付けた包頭からの援軍の自動車部隊に救出される。桑原機関長は戦死、篠原補佐官は自決した。特務機関がでっちあげた五原侵攻の意図は失敗に終わった。
 駐蒙軍は第二次五原作戦を開始する。二十六日五原を取り返した後、同地を引き返す。名目だけの勝利であった。

http://www.geocities.jp/kjbmh507/sonota/sonota-files/naimou-daiiti.pdf


中国側資料では、この五原攻防戦で「日本軍の水川伊夫中将を戦死させた」と記述しているものがある。しかし、これは誤りである。「水川伊夫」なる将官は日本軍に存在しない。ただし、中国側の一方的な捏造と言うわけでもなく、当時蒙古政府の保安部顧問をしていた警察部隊トップが、水川依夫、という名前である*1。もっとも、水川依夫もこの五原作戦では戦死していないので、五原に駐留していた警察部隊長を戦死させたことを、水川戦死と判断したのだろう。

関連資料:
駐蒙軍司令部に人員増加配属の件(1)、C04122869100、陸軍省-陸支密大日記-S16-30-53(所蔵館:防衛省防衛研究所)
五原事件蒙古政府治安部長電報報告、A05020235300、平9警察00756100(所蔵館:国立公文書館)
水川依夫生平三事考

*1:「蒙古政府職員配置表」 A05020235800 、 平9警察00756100(所蔵館:国立公文書館)