平型関関連

八路軍、平型関の戦い 1937年

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1937年9月25日、八路軍第115師は山西省平型関で、旧日本軍第5師団第21旅団の一部部隊との激戦を繰り広げた。この戦闘により、第115師は旧日本軍兵士1千人余りを殲滅。戦利品として歩兵銃1千丁以上、機関銃20丁以上を入手し、自動車100台以上、馬車200台以上を破壊した。中国軍の死傷者は600人あまり。平型関の勝利は、全国を奮い立たせ、各地では次々に祝電が打たれた。(編集SN)
人民網日本語版」2005年8月24日

http://j.people.com.cn/2005/08/24/jp20050824_52983.html

平型関のたたかい
Author:李天佑
Year: 1965 Issue: 41
Column: 文章
Publish Date: 1965/10/12
Page: 38-45

一九三七年九月二十五日、中国共産党の指導する八路軍第一一五師団は、山西省·繁峙県東北の平型関附近で日本軍三千余人をせん滅した。これは、中国人民が抗日戦争(一九三七年―四五年)においてかちとった最初の大きな軍事的勝利であり、日本軍はうち破ることができないという神話を打破したものである。 本文の筆者は、当時第一一五師団第六八六連隊長で、現在は中国人民解放軍副総参謀長である。 つぎは中国人民が日本侵略者をうち破った過程で、どのようにして毛沢東主席の政治、軍事路線を実行したかを物語る一連の回顧録のなかから最初に選んだものである。 八路軍中国共産党が抗日民族統一戦線を樹立したのち、国民党との協定

http://www.sinoperi.com/beijingreview/Articles-Details.aspx?id=2873&lang=JN#

太原会戦と徐州会戦

 一九三七年九月、平綏路に沿って西へ進行した日本軍は大西大同を占領したのち、兵士を分けて南にむかって国民党軍を追撃し、長城の各関口を突破し、山西省省都・太原を奪取しようと企んだ。国民政府は山西を守るため、太原会戦を準備し、長城の内側の雁門関、平型関の一線で、敵を阻止することを決めた。そのころ、八路軍はすでに晋北前線に移動していた。賀龍が一二〇師団を率いて雁門関に、林彪が一一五師団を率いて平型関におもむき、友軍の作戦に協力した。九月二五日、八路軍は平型関の東側に待機して、平型関を進攻する日本軍を攻撃した。日本軍の全部が伏兵戦の圏内に入ると、八路軍戦士は勇ましい勢いで敵を分断して包囲し、敵と白兵戦を展開した。一日の激戦で、敵一〇〇〇名以上を全滅させ、軍用車八〇台を撃破し、多くの武器、弾薬と被服を捕獲した。八路軍の平型関伏兵戦の勝利は、中国が抗戦してから初めての勝利であり、敵の傲慢な気焔を大いにそぎ、中国軍民の士気を鼓舞した。
 平型関で大きな打撃を受けた日本軍は、その後茹越口で国民党軍の防衛線を突破して南下した。国民党軍八万名は忻口で防戦し、敵を果敢に阻止して、激戦のすえ日本軍二万名以上を殲滅した。国民党軍の損失もひどく、第九軍司令官の??夢齢はみずから前線で指揮し、敵の銃弾に倒れ、国に身を殉じた。これとときを同じくして、八路軍は敵の背後でゲリラ戦を展開し、敵を襲撃し、敵の交通線を破壊し、軍需品の供給を断ち、忻口戦闘に大いに協力した。十月下旬、日本軍の一部は娘子関を突破し、東から太原を脅威にさらした。国民党は撤退を決定し、十一月上旬、太原は没落した。

http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/war/textbooks/war_china3.html

追加

平型関戦役遺址
2013年06月28日(金)

国民政府軍を追って山西省の山岳地帯へと入った日本軍(板垣征四郎師団長)は、 1937年9月25日、崖の上で待ちぶせしていた林彪率いる八路軍によって壊滅させられた。 日本軍の中国軍に対する初めての敗北であった。山西省大同の東南、霊邱県の西方。現在、 京原鉄道(北京〜太原)が走っている。

http://china-redtour.com/%E5%B9%B3%E5%9E%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E5%BD%B9%E9%81%BA%E5%9D%80/