支那駐屯軍司令官による7月26日の最後通牒

1937年7月25日深夜から26日朝にかけて起きた郎坊事件を契機として、日本軍は宋哲元の第29軍に対して7月28日正午を期限とする最後通牒を発した*1

この強硬な最後通牒は、対中強硬派の新任*2支那駐屯軍司令官である香月清司中将が発したものである。
香月司令官は着任直後の7月13日から強硬な情勢判断を行い、陸軍中央の不拡大方針を逸脱する傾向を示していた。

7月11日に現地で成立した停戦協定以降も、日中両軍は豊台から一文字山の線で対峙し散発的な衝突が起きている。対峙している日本軍は牟田口廉也率いる一個連隊である。
7月14日以降停戦協定の細目を支那駐屯軍と第29軍の間で協議したが、日本側の要求は次第に強硬姿勢に変わっていく。その間も日本軍は続々と北平附近に集結しつつあった*3
陸軍中央も現地軍に引きずられ、7月16日には19日を期限とした強硬な最後通牒案を作成していた。

日本軍側の強硬な提案(7月14日案)に対し、第29軍側はほとんど全て承認することを決し、7月17日夜に張自忠(第38師長)が橋本参謀長を訪問しその旨を伝えた。日本側の要求であった宋哲元の陳謝の実行のため、宋哲元は7月18日に天津を訪問し事件について謝罪した。
翌7月19日には細目協定を結んでいる。

7月19日まで中国側は次第に強硬化する日本側の提案に歩み寄り、危機の回避を図っていた。
しかし、日本側は中国側に対する圧力を強めるばかりであった。

7月19日の最後通牒

宋哲元が自ら出向いて謝罪した上、ほぼ全面的に日本側の提案を飲んだ19日の細目協定締結の直後、香月司令官は中国側の「不信行為」をなじり7月20日正午までに「不信行為」が止まない場合は、「断固必要と認むる処置」を取ると通告したのである。

その「不信行為」の内容は、18日の日本機に対する対空射撃、19日の一文字山付近における日本将校の負傷、19日夜の中国軍による迫撃砲射撃、と言った前線で日中両軍が対峙している状況を考慮すれば些細と呼べる程度の内容である。

7月18日の中国軍の日本機に対する対空射撃

香月司令官が「不信行為」と呼んだ日本機に対する対空射撃とは、どのような事件だったか?

それは、7月18日午前10時に飛び立った日本軍偵察機が中国領土内深く、京漢線に沿って河南省の省境まで侵入し漳河付近で発見した列車を偵察するため急降下した際に、乗車していた中国軍から小銃、機関銃、高射砲で対空射撃を行ったものである。
偵察機は無事帰還したが、対空射撃を受けた際に日本軍偵察機が反撃した結果、中国軍側に死者2名、重軽傷者十数名が生じている*4
中国軍から見れば、自国内を列車で移動中に紛争相手国の軍用機が急降下してきたため、対空射撃という当然の反応を示したに過ぎない。そして日本側に人的被害なく、中国側に数十名の死傷者が出たにもかかわらず、日本軍の司令官は「不信行為」と呼び、最後通牒を突きつけてきたのである。

7月19日の小衝突

19日の一文字山付近における日本将校の負傷、19日夜の中国軍による迫撃砲射撃とはどういう事件か?
寺平の「盧溝橋事件」によれば中国側から先に発砲したとなっている。しかし日本側には一切被害が出ておらず、「盧溝橋事件」の記述どおりだとしても、威嚇、挑発以上のものではなかった。
しかし、それに対する日本軍の反応は、連隊砲や15センチ榴弾砲を用いた宛平城全域に対する砲撃である。中国側の被害は明確ではないが、少なからぬ死傷者が出たであろう。どう考えても過剰防衛というしかない行為である。

19日夕刻、中国側は日本軍の砲撃に対する報復的に迫撃砲で砲撃を行ったが、日本側は死者1名、負傷1名程度に過ぎなかった。日本軍はこれに対しても重砲によるさらなる反撃を行い、宛平城の楼門が破壊されるほどの砲撃を加えている。

これらが日本軍のいう「不信行為」の実態であった。

宋哲元は7月19日の最後通牒に対しても誠実に対応した

20日正午の期限をつけた香月司令官による最後通牒に対し、宋哲元は危機を回避すべく誠実に対応し第37師などの撤退が開始された。20日午後になっても盧溝橋付近で小衝突が起こったが、宋哲元が誠実な対応をしていることは日本側も認めざるを得なかった*5
しかし、第37師の撤退は思うように進まなかった。理由の一つとして撤退に利用する京漢線の沿線上を日本軍が占領していたと言う事情がある。

7月25日の日本軍郎坊派遣

日本軍1個中隊が郎坊に派遣されたのは、以上のような状況下である。電線修理のためだけで1個中隊も派遣するのは尋常ではなく、度重なる圧力で中国軍側に一方的に後退を強いているにもかかわらず、日本軍は前進するというおよそ誠意のかけた挑発行為を行ったことになる。
しかも郎坊に派遣された日本軍1個中隊は、現地中国軍に対して宿舎を提供するよう要求するなど、「電線修理」の目的からは考えられない言動をとっている*6
結果的にこれらの行動が郎坊事件へとつながり、香月司令官は7月26日、改めて最後通牒を発する事になる。

盧溝橋事件以来、特に香月中将が司令官となって以来、支那駐屯軍側は紛争を避けようとする努力に著しく欠いており、中国軍に対する強硬な態度をとり続けた。譲歩を重ねた宋哲元に対し、香月司令官は全く譲歩を姿勢を見せず、徒に挑発的な行動をとって、個々の小衝突を招き、それを奇貨として中国軍にさらなる圧力をかけていったのである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20110528/1306603710http://binder.gozaru.jp/042-ro.htm

*2:1937年7月11日付をもって重病の田代軍司令官と交代し、12日に現地に着任した。着任までの軍司令官職は橋本群参謀長が代行していた。

*3:7月17日には独立混成第1旅団が順義に、19日には独立混成第11旅団が高麗営に、18日には第20師団主力が天津に到着している

*4:寺平忠輔「盧溝橋事件」P269-270

*5:秦郁彦日中戦争史」P219

*6:寺平「盧溝橋事件」P301