読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

綏遠事件の推移

綏遠事件に関してはネット上には情報が乏しく、Wikipediaなどは例によって「内蒙古独立戦争」という歴史修正主義な中途半端な記載となっている。事件の時系列について詳細に述べているものは少ないので、簡単にまとめておく。

関東軍を後ろ盾にした徳王は1936年2月9日に蒙古軍司令部を成立させ、中華民国政府と対立した。徳王は王英に大漢義軍*1を成立させ察哈爾省から綏遠省への侵攻の準備に取り掛かった。
なお、徳王の勢力はこの時点では基本的に察哈爾省内であったが、一部は綏遠省の百霊廟にも展開している*2

6月から8月ごろ数度にわたって、徳王軍は綏遠省に侵入しているが大事には至っていない。しかし、8月4日*3に綏遠省に侵入した王英麾下の王道一部隊は晋綏軍騎兵を率いる趙承綬軍と衝突した際、救援に駆けつけた傳作義部隊に撃破され、王道一は部下に暗殺されている。

内蒙側で兵士の反乱が相次いでいる事からわかるように、内蒙自治運動というものは徳王ら極一部が関東軍の支援の下で活動していただけで、民衆レベルの自治要求ではなかった。

徳王の要求

8月の衝突から傳作義の綏遠軍と徳王の内蒙軍の対立は激化し、11月9日、徳王は傳作義に対し最後通牒とも言える要求を出している。

  • 察哈爾右4旗*4の返還*5
  • 各地の軍事施設撤去
  • 蒙政会保安隊から奪った武器の返還*6
  • 蒙政会への未交付経費20万元の支払
  • 蒙政会反逆者*7の引渡し

徳王の要求に対し、傳作義は明確に拒絶し、徳王が関東軍に唆されていることを指摘した。
11月14日、徳王は軍事行動を開始する。

11月17-18日・紅格爾図(ホンゴルト)の戦闘

まず、察哈爾省西端の商都(現・商都県)から王英率いる大漢義軍7000人が西進し、11月15日に紅格爾図(ホンゴルト、現・察哈爾右翼後旗紅格爾図)と土城子(現・察哈爾右翼中旗土城子郷)を攻撃した。この攻撃には内蒙軍の航空部隊による空襲も行われているが、15機、23機による2回の空襲のみで1機が失われている。なお、この内蒙軍航空部隊の司令は、予備役陸軍航空兵少佐の川井田義昌(当時は満州航空株式会社運航部長)である。
翌11月16日、傳作義は紅格爾図南方の集寧(現・ウランチャプ市集寧区)に赴いて、騎兵第1師、第218旅に砲兵一個営*8をつけて紅格爾図包囲中の王英軍に対する反撃を命じた。
紅格爾図西方に集結した綏遠軍*9は11月17日夜半、王英軍に対する反撃を開始する。翌18日払暁には王英軍は敗走した。

11月23-24日・百霊廟の戦闘(第一次)

百霊廟は綏遠省内にあるが、徳王の蒙政会発祥の地でもあり11月初旬に徳王率いる蒙古軍第2軍の一部が百霊廟に進駐していた。紅格爾図(ホンゴルト)の戦闘に勝利した傳作義は百霊廟の奪回を企図し、騎兵第2師、第218旅に砲兵一個営、装甲車分隊をつけて百霊廟攻略を命じた。
11月22日、騎兵第2師、第218旅の他、第70師の一個団*10などが二分子(現・包頭固陽県二分子)に集結。11月23日、百霊廟に対する攻撃を開始し、24日払暁には百霊廟を占領した。
敗退した内蒙軍第2軍は大廟(シラムリン廟)へ撤退する。

内蒙軍の死傷者は約1000人(死者300人)、捕虜300人と言われ、さらに莫大な物資が押収された。

11月27日・関東軍の恫喝

内蒙軍が紅格爾図(ホンゴルト)と百霊廟で、ことごとく敗れたことは、関東軍に危機感を与えた。傳作義の綏遠軍に呼応して、宋哲元の第29軍や中央軍が積極的に察哈爾省に侵攻してくる可能性を考慮したのだが、実際には実現性の低い懸念だった。
それでも、11月27日、関東軍は「内蒙軍の決起は防共自衛のため已むを得ざる手段」と主張し、「関東軍は内蒙軍の行動に関し多大の関心を有しその成功を願うと共に万一満州国接壌地方にして本戦乱の影響により治安攪乱せられ累を満州国におよぼしもしくは支那全土赤化の危機に瀕するが如き事態発生するにおいては関東軍は適当と認むる処置を講ずるの已むなき」に至るであろう*11と声明し、中国側を威嚇した。

察哈爾省・綏遠省という中国国民政府が主権を有する地域内の反乱事件に対し、隣国の軍事組織が反乱に肩入れした威嚇声明と出すと言う明らかな内政干渉である。

そして、満州国政府も追随する声明を出している。

中国民衆側から見れば、内蒙軍が関東軍の手先・傀儡に見えて当然の状況である。

12月3-10日・百霊廟の戦闘(第二次)〜大廟(シラムリン廟)占領

紅格爾図(ホンゴルト)と百霊廟の二度にわたって敗北した内蒙軍内部では、意見の対立があったものの田中隆吉の強硬論に影響された徳王が、4000人の部隊を持って百霊廟を奪回する作戦を決定した。11月29日のことである。

主体となる部隊は、王英軍配下の金甲山部隊だが、指揮を執ったのは日本陸軍少佐・桑原荒一郎*12である。

12月3日、桑原荒一郎が指揮する金甲山部隊は百霊廟の傳作義部隊(孫長勝率いる騎兵第2師など)に攻撃を仕掛けたが、翌4日、綏遠軍は一斉に反撃し金甲山部隊を撃退した。猛烈な寒気の中、敗残の金甲山部隊は凍傷に襲われつつ悲惨な撤退を強いられた。
金甲山部隊は何とか出撃地である大廟(シラムリン廟)まで撤退したが、そこを追撃してきた孫長勝の騎兵第2師に襲撃され、12月10日、大廟(シラムリン廟)は陥落した。
この時、負け戦と酷寒の行軍を強いられた金甲山部隊の中では日本人幹部に対する不満が高まり、2個旅が反乱を起こし、軍事顧問であった小浜氏善予備大佐を射殺した後、綏遠軍に投降した。

12月12日・西安事件の勃発を契機に内蒙軍は一方的に停戦宣言

12月10日に大廟(シラムリン廟)を占領した事により、綏遠省内の反乱勢力の拠点は全て消滅した。傳作義の完全勝利である。
徳王は察哈爾省内に押し戻され、権威も失墜したが、12月12日に張学良が蒋介石を監禁する西安事件が発生したことを理由として利用し、12月18日徳王は一方的に停戦宣言を出して面子を保とうとした。

もとより綏遠省内を完全に把握した傳作義にとって、中央軍や第29軍の協力もなく察哈爾省に侵攻するような無謀なことをする理由はなかったのだから、12月18日の徳王の停戦宣言は、徳王が自分の面子を守ろうとした以外の効果は全くない。傳作義をはじめ、中国軍民の目は西安事件の行方に向けられており、徳王などは眼中になかったのである。

*1:王道一・劉桂堂・石友三系の雑匪軍を含む約6000人の兵力(「日中戦争史」秦郁彦、P115)

*2:しかし、百霊廟保安隊は1936年2月21日に徳王に反対して暴動を起こし、傳作義側に走っている。

*3:7月30日とも

*4:陶林(現・察哈爾右翼中旗)、平地泉(現・察哈爾右翼後旗)、豊鎮(現・豊鎮市)、興和(現・興和県)

*5:かつては察哈爾省に属したが、1929年に綏遠省に併合されていた。

*6:元々、徳王が百霊廟に設立した蒙政会に対抗して国民政府が綏遠省境内蒙政会を組織した。百霊廟蒙政会は察哈爾移転を命じられ分裂したことによる。

*7:1936年2月に徳王に反乱し傳作義側に走った百霊廟保安隊のこと

*8:営:中隊に相当

*9:騎兵第1師、第218旅、第211旅、第68師の一個団(団:連隊に相当)など

*10:団:連隊に相当

*11:日中戦争史」秦郁彦、P118

*12:張北特務機関長。のち1940年3月21日、五原作戦で傳作義軍に敗北して戦死。