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通州城新南門外 宝通寺の戦闘(1937年7月27日)

日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の首都・通州は北京の東方約10キロにある小さな都市である。通州は1935年の塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の境界線上に位置し、城内及び城外南東部には冀東政府保安隊が駐屯しており、城外南西部の宝通寺には冀察政務委員会宋哲元麾下の第29軍独立第39旅第717団第1営(営長・傳鴻恩少校)が駐屯していた。

7月25日深夜から26日にかけて起こった郎坊事件後、日本軍は続々と増援部隊を送り込み北京を包囲する体勢を作ろうとした。広安門事件もこのための部隊移動に伴い生じた事件である。
これら日本軍北京包囲部隊の重要な後方基地が通州である。日本軍にとって通州城外に駐屯する第29軍の一個営は邪魔な存在であった。
このため、日本軍の通州特務機関は26日夜、傳鴻恩に対し27日午前3時までに武装解除し退去するよう最後通牒を発した。もとよりこのような短時間でできるわけもない無茶な要求であり、日本軍もそれを承知の上での最後通牒であった。
傳鴻恩部隊撃滅には、北京包囲に向かう途上の支那駐屯歩兵第2連隊*1をあてた。

宝通寺の戦闘

攻撃開始は27日午前4時。傳鴻恩から回答があったという記録は見当たらない。
品部大隊は傳鴻恩部隊兵営の北方から、安岡大隊は東方から攻撃を開始、小山哲郎中佐の砲兵隊は無線電信所に既に陣地を築き砲撃を開始した。
傳鴻恩部隊はろくに戦闘準備も出来ないまま事実上の奇襲を受けた上、わずか一個営(日本軍の一個大隊に相当)に対し日本軍二個大隊+砲兵隊という圧倒的な兵力差で、ほぼ一方的に蹂躙された。
さらに夜明けと同時に日本軍による空襲も行われ、傳鴻恩部隊は午前11時には敗走していった。日本軍の戦死者は将校含む6名、負傷者26名であった*2

この宝通寺の戦闘で、日本軍の爆撃機は通州城外南東部にあった冀東政府保安隊幹部訓練所を誤爆した。
この誤爆により、保安隊兵士十数名が死傷した。

*1:連隊長・萱嶋高大佐

*2:「盧溝橋事件」寺平忠輔