第二次山海関事件の概略

「山海関事件」は、1933年1月1日に起きた日本軍第8師団による山海関占領事件*1がよく知られているが、これは第三次山海関事件とされる。

 昭和七年十月一日、山海関において、満州国国境警察隊員と中国軍兵士との間で紛争が起こった(第一次山海関事件)。これは支那駐屯軍に属する山海関守備隊長落合甚九郎少佐の斡旋によって解決した。十二月八日には、歩兵第五連隊の装甲車*2が給水のために山海関駅に入ろうとして中国軍と紛争を起こした(第二次山海関事件)。これは、歩兵第五連隊長谷儀一大佐・落合少佐と第九旅長何柱国とが会見して解決した。中国側は掃共戦が必ずしも順調で無く、日本側は連続する討伐作戦に疲労しており、双方に焦燥と不安不信が鬱積していたと思われる。昭和八年一月一日、第三次山海関事件が起こった。中国軍満州国国境警察隊に発砲したのを契機に、山海関守備隊・歩兵第五連隊*3第一中隊が出動、連隊主力も前進を開始した。翌二日、第八師団長*4は、歩兵第四旅団長に対して同地の奪取を命じた。旅団は、三日午後一時半、山海関内城を占領した。

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山海関守備隊は、支那駐屯軍に属し義和団事件の名残として要衝・山海関に駐屯していたが、その兵力は1919年時点で将校4名、下士卒69名、合計73名であった*6
山海関には日本の他、英仏伊の軍も駐屯していたが、英国はインド兵(下士卒のみ)27名、フランスは本国の将校1名に本国の下士卒6名、それに安南(ベトナム)の下士卒85名、イタリアは下士卒10名のみであった。
英国とイタリアは将校もおらず、せいぜい領事館の警備人員程度に過ぎない。フランスは合計人数では日本軍を上回るが、士官の数はたった一名であり、大多数は植民地兵であったことから領事館及び港湾警備などが主任務であったろう。
日本の山海関守備隊の人員規模は軍事的脅威と言えるほど大きくはないが、少佐クラス*7をあてている事は注意を要する。
なお、「蒋介石秘録 10 毛沢東の敗走」によれば、「日本は義和団の乱の際に結ばれた北京議定書においてロシアを意識した要求を行い、万里の長城の東端に位置する山海関とその西南15kmにあり不凍港として重要視される秦皇島などに駐兵する権利を得ていたため、この時期の山海関には北寧鉄路南側の兵営に歩兵100人と工兵の小部隊を駐留させ砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約50人を駐屯させていた」という*8

1932年12月8日の第二次山海関事件

歴史修正主義者の別宮によると、以下のように簡単に述べられている。

12月8日、北寧線列車に山海関城(東羅城)方向から射撃があり、銃撃戦となったが、9日午前2時までに銃撃は停止された。

http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/mukden%20incident.html

「北寧線列車」と書かれているのは、関東軍守備隊による満州国内の抗日分子討伐を支援するために活動していた装甲列車のことである。しかもこの装甲列車中国軍が管理する山海関駅に向かっていた。河野収が「給水のため」と書いているように、確かに装甲列車の山海関駅進入の目的は「炭水補充の為」*9だったようだが、日中両軍が向き合う最前線の要衝である山海関に、しかも夜10時に、装甲列車で乗り込むのは非常識としか言いようがない。
日本側は「山海関駅は従来満支双方が利用していたから」と主張しているが、満州事変以来日中両軍が交戦状態にあることを考慮すれば理由にはなっていない。

事件は1932年12月8日夜10時、日本軍の装甲列車中国軍が警備する山海関駅に侵入しようとしたことから始まっている。
夜間武装した列車が山海関に向かっているのに気付いた中国兵が先に発砲した可能性はあるが、日本軍はその報復として山海関駅に装甲列車で乗り込み10発以上の砲撃を行っている。
戦闘は12月9日の午前2時には停止しているが、中国軍司令部から派遣された人員が日本軍と交渉した結果である。装甲列車での砲撃と言う極めて強硬な日本軍の行動に対し、中国軍側は卑屈なまで自制した対応をとっている。

3週間後の第三次山海関事件で、山海関守備隊長・落合甚九郎は積極的な謀略を行ったが*10、この第二次山海関事件にどのようにかかわったかについては資料を見出せない。

*1:何者かによる発砲があったという理由で、日本軍が山海関の中国軍に撤退せよと要求し、衝突。1月3日に日本軍が山海関を占領して終結したが、張学良ら中国軍の警戒心を煽り、国際世論からも日本軍による意図的占領と少なくない批判が生じた。

*2:装甲列車の誤記と思われる。但し、この時期の装甲列車は通常の列車に多少の改造を施した程度のものと思われる。

*3:谷儀一大佐

*4:西義一中将

*5:「近代日本戦争史 第三編 満州事変・支那事変」第一章第四節 満州国の建国と発展、河野収、P115-116

*6:「天津軍司令部 1901/1937」古野直也、巻頭の図中の記載。なお同書は日本軍擁護のための歴史修正主義で貫かれた出所の明確な資料以外の記載の信頼性は低い。実際、山海関事件については本文中では全く触れられていない。

*7:大隊長程度。歩兵なら1000人程度を指揮する。

*8:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%98%E6%B2%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A#.E5.B1.B1.E6.B5.B7.E9.96.A2.E4.BA.8B.E4.BB.B6

*9:山海関事件 略合第2283号、アジア歴史資料センター「47 (三十九)山海関事件」 レファレンスコード :B02030431000

*10:http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20110130/1296397237