第三次山海関事件についての記述

1933(昭和8)年
山海関事件。
山海関守備隊長落合甚九郎少佐謀略。山海関憲兵分遣隊裏庭、日本守備隊派出所前鉄道線路上に手榴弾投擲。3日、夜明け、陸海軍協同攻撃。午後2時、山海関占領。張学良・何桂国に陳謝及び山海関の緩衝地帯化を要求。

山海関(万里の長城の東端の、奉天〜北平の鉄道が関内(支那本土)へ入る入口に当る)。
元日夜、山海関守備隊長(天津派遣軍所属)落合甚九郎少佐の命により、国境警備隊山海関派遣隊特務警士4名が、日本側の山海関憲兵分遣隊裏庭と日本守備隊派出所前の鉄道線路上に手相弾2発ずつを投擲、爆発、損害なし。落合少佐は、これを支那側何柱国軍の仕業として抗議し、安全保障の為に日本軍による山海関南門警備を要求。相手側指拝官何柱国が北京に行っていて留守中に、武力に訴える謀略。
2日夜、関東軍司令部に日支両軍衝突の入電があるが、それ迄に、隷下の第8師団は兵力を山海関へ増強。何柱国が、北平からの帰路、秦豊島に止まり電話で落合隊長と交渉している間に、日本側は攻撃兵力を整える。守備隊が2個中隊だったのを、歩兵10個中隊基幹に増強、空軍1中隊を加え、更に海軍も協力して、津田静枝第2遣外艦隊司令官は軍艦「平戸」と第16駆逐艦隊を急行させる。
3日仏暁、陸海空3軍協同して攻撃開始、牛後2時、山海関を完全占領。午後6時頃、第8師団は関東軍司令部へ山海関占領後の進退に関する指示を求めると、事態拡大は目下の情勢上不得策であり、濫りに渦中に投じないように指揮下部隊を指導せよとの回答。第8師団は何柱国軍を追撃し、4日、石河の線で停止、何柱国軍もここで増援を受け日本軍に対時、後の熟河作戦開始まで一服の状態となる。

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