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大山勇夫中尉事件は死を覚悟した挑発行動?

1937年 第二次上海事変

こういう話がある。

開会挨拶をした早稲田九条の会代表委員武藤徹さん( 83歳・元都立戸山高校数学教師)は東京帝國大学数学科1年生の時、陸軍参謀本部第三部(情報担当)が疎開した長野県下諏訪に勤労動員学徒として昭和20年5月3日から8月15日まで勤務していた
(略)
その後の懇談会の中で武藤さんは大山大尉事件について衝撃的で驚くべき証言をなさいました。管理人はさらに詳しくお聞きしましたのご報告します。武藤さんには自分史として記録していただき若い方に承継していただくようにお願いしました。

>上官だった釜賀一夫少佐が第二次上海事変時の大山事件の真相を私に話した。「軍は大山勇夫海軍中尉に家族の面倒を見るから死んでくれと言った。そこで大山中尉は中国軍の三重の警戒線があったが、まず第一、第二の阻止線の誰何(すいか)を突破していった。そして第三の阻止線における銃撃で殺されたのだ」<

http://hagw.blogzine.jp/index/cat10460608/index.html

要は1937年8月9日の大山事件は、日本軍が大山中尉に戦死覚悟で虹橋飛行場に突入させた、という主旨の内容である。
伝聞の流れとしては、
(軍関係者)→釜賀一夫→武藤徹
となっているが、武藤徹が釜賀一夫から大山事件の話を聞いたのは勤務時期から考えて、1945年5月3日以降であろう。では釜賀一夫はいつその話(自殺的突入説)を聞いたのか、というと釜賀一夫の経歴*1から考えて、砲兵少尉に任官した1938年1月以降であろう。それ以前は陸軍士官学校となる。
釜賀一夫本人は大山事件当時、陸軍士官学校に所属しており直接に上海の状況を知りうる立場にない。では、釜賀一夫は誰からその話を聞いたのか。釜賀一夫は任官後は留守師団や重砲連隊、参謀本部などで暗号関係の任務についており、大山事件関係者から直接聞いたというのも考えにくい。

おそらくは軍内部で流れた噂

大山勇夫中尉による虹橋飛行場偵察が、海軍(おそらくは第3艦隊)の要請に基づくものであったのは間違いないだろう。1937年8月当時、華北で日中両軍が激しく戦っていた状況から上海でも緊張状態が生じており、中国側も正規軍を上海付近に前進させたり、保安隊による滬西越界路地域の警備を強化させたりしている。中国軍の軍専用飛行場であった虹橋飛行場やその周辺の滬西越界路地域には厳重な警備が布かれ、日本軍将校が公然と進入することは困難だったはずだ。
そこに進入するために、大山らは軍服の上着やネクタイを脱いで、一見民間人のようないでたち*2で薄暮の時間帯を狙って虹橋路を車で進んだのだろう。大山勇夫中尉に対して「命をかける覚悟で」などとの訓示はあったかも知れないが、特攻まがいの指示であったというのは考えにくい。
釜賀一夫が武藤徹に自殺的突入説を語った1945年には既に特攻が常態化していた時期であり、大山事件についてもそれを踏まえた脚色がされたのではないだろうか。脚色前の核となる話はあったかもしれないが、事件後8年も経過していること、大山勇夫中尉が特攻同様に死後昇進していることなどを踏まえる必要があるだろう。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%A4%AB

*2:同様の偽装を1934年に別の海軍将校が行っている。陸戦隊の夏服である第三種軍装は背広型であり帽子・上着を脱いでネクタイを外せば、民間人と見分けにくくなる。水兵の場合も上着を脱いで運転席に座っていれば、車外から一般人か軍人かを見分けるのは困難である。また、実際に大山らは一般人の服装をしていたとの報道もあった。