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大山勇夫中尉と斉藤与蔵一等水兵の死体検案書と死亡時の状況

1937年 第二次上海事変

大山事件の翌1937年8月10日に、日本海軍軍医少佐有馬玄と中国の法医学者孫達方が作成したと言う死体検案書が、児島襄の「日中戦争」に記載されている*1

一、死亡者の氏名 大山勇夫
一、死亡の原因 他殺
  (頭蓋骨粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、右腰部射傷、左腰部盲貫銃創*2、左腹部に鉛弾を蔵す)以上各傷。
一、死後経過時間 九時間

一、死亡者の氏名 斉藤与蔵
一、死亡の原因 他殺
  (顔面挫傷、右頭頂部複雑骨折、後頭部貫通射傷、肋骨骨折)
一、死後経過時間 十時間

死亡時の状況

大山勇夫の場合は、保安隊の銃撃により車内で銃創を受け、停車後車外に逃れようとした所で銃剣又は大刀で止めを刺されたのであろう。車外に逃れた後に受けた銃創もあるかもしれない。
児島襄は「検案書に記載されたもの以外にも傷があり」*3などと、日本側主張を鵜呑みにしているが、大筋では同様である。但し、「大刀で頭部を斬り割ったらしい。」*4と言うのは、検案書にない傷であり、日本側の後刻主張を鵜呑みにしているにすぎない。検案書には「頭蓋骨粉砕骨折」とあり刃物で斬った傷とは書かれていないことから、自動車事故に伴う骨折の可能性も高い。

さらに斉藤与蔵に関してはめちゃくちゃな推論を行っている*5

斉藤一水の頭部貫通銃創は、即死をもたらしたとみられ、したがって、顔面、頭部の挫傷と骨折は、死体をひきずりだし銃床をたたきつけたものと、推定された。

斉藤与蔵の「顔面挫傷」「肋骨骨折」も典型的な自動車事故の怪我である。保安隊の銃撃を受け斉藤与蔵は運転を誤り道路右手の畑に突っ込み、その際にハンドルなどで「顔面挫傷」「肋骨骨折」を負ったと推定できる。同時に後部座席で銃撃を受けた大山勇夫も「頭蓋骨粉砕骨折」という重傷を負いつつ、停車した車から逃れようと車外に逃げ、斉藤与蔵も顔面挫傷で流血しながら、車外へ逃走したのだろう。
腰に被弾していた大山勇夫はその場を動けず、駆けつけた保安隊員により射殺ないし刺殺されたが、致命傷ではなかった斉藤与蔵は豆畑に逃走し、1キロほど逃げたところで保安隊員に発見され銃床で殴られた上、射殺された、と言うところだろう。

死後経過時間について

大山勇夫が死後9時間に対して、斉藤与蔵が死後10時間となっているが、両者の死亡時刻が1時間もずれている事は状況から考えられないため、死後硬直の状態などから機械的に算定した推定時間に過ぎないのだろう。

*1:日中戦争 VOL3 1937-1945」P85

*2:原文ママ。盲管銃創

*3:同書P85-86

*4:同書P86

*5:同書P86