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大山事件発生時にクロード・ファレールは上海にはいなかった

歴史修正主義者である東中野修道が反中プロパガンダでクロード・ファレールの随筆を引用して以降、ネトウヨにより頻繁に利用されている記述が、クロード・ファレールによる大山事件の描写である。
中には、クロード・ファレールが”証言”しているとまで言ってのける以下のようなネトウヨサイトもある。

この事件はイギリス、フランスとアメリカの警察によって現場検証されており、その捜査結果は逆に大山中尉が被害者であったと、フランス人のクロード・ファレールによって証言されている。

http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-110.html

*1
しかし、クロード・ファレール自身は1937年8月の大山事件の現場検証には立ち会っていない。当時、クロード・ファレールはフランスにいた。
クロード・ファレールは、外務省の招待によって1938年1月に来日している*2マルセイユからサイゴンまでは、薩摩治郎八と同じ船に乗っていたことが薩摩治郎八の自叙伝「せ・し・ぼん わが半生の夢」に載っており*3、薩摩治郎八がパリを発ったのは日華事変勃発後であることも、日華事変のために中国人留学生が帰国するエピソードと共に書かれている*4
1930年代当時、パリからマルセイユまでは約半日、マルセイユから神戸までの船旅は32日以上かかっていた*5。欧州に留学していた中国人が帰国するような事態になったことから、パリ出発は盧溝橋事件直後ではなく早くても7月17日以降、おそらくは8月以降だろう。つまり、仮に来日前に上海に寄ったとしても、クロード・ファレールは8月9日に起こった大山事件の現場検証には絶対に間に合わないことになる。
薩摩治郎八は、クロード・ファレールとは旧知であり、マルセイユからの船の中でクロード・ファレールから日本に行くところであることを聞いていることから、クロード・ファレールと薩摩治郎八は、1937年12月にマルセイユを出発し、途中サイゴンで薩摩治郎八が下船し、クロード・ファレール自身は神戸に向かい、神戸から特急「燕」号で東京に向かった*6ことがわかる。

大山事件発生時・現場検証時、クロード・ファレールは上海から遠く離れたフランスにいた。
したがって、クロード・ファレールが大山事件の現場検証の様子を証言できるはずもなく、クロード・ファレールの大山事件に関する記述は全て伝聞によっており、信憑性は極めて低い。

*1:ちなみに、9日深夜から10日朝にかけて大山事件を現場検証したのは中国側の他は、日本の軍人と上海工部局の日本人警官であって、「イギリス、フランスとアメリカの警察」は検証していないので間違っている。

*2:「戦闘 La Battaille」Claude Farrere著、野口錚一訳、解説 P268、読売新聞ニュース 1938/2/3 「クロードファレール翁来朝(神戸−東京)」http://www.y-eizou.co.jp/contents/m_lib/pdf/list_s13.pdf

*3:「せ・し・ぼん わが半生の夢」薩摩治郎八 P64-65

*4:同書P64

*5:http://www.tt-museum.jp/gara4.html

*6:「戦闘 La Battaille」Claude Farrere著、野口錚一訳、解説 P268