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ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における大山事件

ハリエット・サージェントは1954年生まれのイギリス人女性コラムニストである。
父であるサー・パトリック・サージェントが文化大革命直後の上海に訪れた際に同行し、上海についての本を書くことになった。「上海 魔都100年の興亡」は歴史の本ではないが、これを書くにあたってハリエット・サージェントは歴史書や当時の資料、アメリカ、日本、中国、イギリスの関係者に取材している。

大山事件についてはほんの三行でこう書かれている。

 八月九日の夕方、日本海軍の陸戦隊第一中隊隊長も自動車で上海の街を走っていた。彼の車は運転手つきで、モニュメント路を共同租界から西に向かっていた。目的は中国軍の虹橋飛行場の「視察」だった。しかし、やがて、銃弾を浴びた二人の遺体が発見されることになる。

中国を非難するような文句はないし、日本の意図もかっこつきの「視察」とし、暗に日本側も挑発となりかねない偵察行動をとったことを示している。実際に当時の上海の住民はこの程度に把握していたのだろう。
大山事件は、事件からわずか三日後の8月12日に日本側が検証を打ち切り、中国側は検証結果に納得せず、お互い強硬な態度に出て8月13日*1には武力衝突が発生、最終的に大山事件の真相はうやむやになっている。

ハレット・アーベント(Hallett Abend)について

歴史修正主義者の団体である史実を世界に発信する会の茂木弘道は以下のようにニューヨークタイムス記者ハレット・アーベントの記事を利用している。

「上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我  慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理や  り追い込まれてしまったのである。」(1937年8月31日・ハレット・アーベント記者)

http://hassin.org/01/opinion/966

しかし、ニューヨークタイムスのアーカイブで1937年8月31日のHallett Abendの記事を確認しても、上記に該当する記事は見当たらない*2
仮に上記の内容が事実だったとしても、第二次上海事変の開戦当時アーベントは上海にいなかったこと*3、8月23日の爆撃ではアーベント自身が負傷していること*4、爆撃が中国軍誤爆であることを考慮すべきだろう。

*1:「上海 魔都100年の興亡」では八月十二日金曜日となっているが(P426)、1937年8月12日は木曜日であり、8月13日の勘違いであろう。

*2:8月31日付けのAbendの記事は2本ある。「Japanese Promise Not to Bomb Civilians 'at the Present Time'; But Raids Like Those in the Nantao Zone May Be Necessary Later, They Warn--Hospital Ship Shelled by Foe, Invaders Charge--Both Sides Prepare for Vast Shanghai Battle」と「JAPAN MAY START DRIVE ON NANKING; Decision Rests Upon China's Attitude Toward Tokyo,Admiral Honda Says」だが、いずれも日本の対応に批判的な記事である。

*3:アーベントは8月18日に上海に着き、14日の租界内爆撃現場に行っている。。「上海 魔都100年の興亡」P430

*4:「上海 魔都100年の興亡」P434