1932年1月21日の上海の政治状況

日本人居留民

日本人居留民デモ隊*1が北四川路で横暴の限りを尽くした翌1月21日、居留民団はさらに過激な声明を出した。

吾人は尊き生命の傷害を受け財産の掠奪も蒙り絶大なる通商の迫害に困窮し、尚且つこれ等権益の侵害に眠る帝国政府の無気力に対しては洵に憤慨に堪えざるのみならず、実力発動の『キッカケ』としても数フィートの鉄道線路破壊*2よりこの不敬事件、この生命の傷害が遥かに重大にして、事既に其の必要を見るにも拘わらず、若し帝国政府に於いて此の際敢然として起つに非らざれば、吾人は民衆の自力を以って敢然起ち暴戻飽くなき抗日会及びこれを擁護する市政府並びに不埒なる民国日報に対し断固たる行動に出づるを辞せず。*3

右翼団体に煽られ、排日貨運動で経済的に打撃を受けていた日本人居留民の反中感情はきわめて高まっていた。総領事館はコントロールできなくなった青年同志会などの右翼団体を上海から追い出そうとし始める。これには本国の芳沢外務大臣から村井総領事への訓示の影響もある。

日本総領事と上海市

1月21日午前、村井倉松総領事は呉鉄城上海市長を訪問し、四項の要求を出している。

1.市長の総領事に対する陳謝
2.加害者の逮捕、処罰
3.被害者五名の治療費および慰謝料
4.排日侮日にわたる不法越軌行動の取り締まり、特に上海抗日救国委員会をはじめとする各種抗日団体の即時解散

これは1月18日の日本人僧侶傷害事件に対する中国への謝罪要求であるが、前日の右翼団体による三友実業社放火、工部局中国人警官殺傷事件、日本人居留民による北四川路暴動の直後であるにもかかわらず、ここまで抜けぬけと謝罪要求する厚顔無恥さには驚かされる。
この要求に対し、呉鉄城上海市長は「1」〜「3」まではともかく「4」の抗日団体の解散には難色を示し、政府当局と相談するので待って欲しいと回答している。
現実問題として、東北地方を現に日本に侵略されている状況で抗日団体ができるのは当然であるし、それを日本の言いなりに中国政府が取り締まれば中国政府そのものが瓦解しかねない。しかも当時は蒋介石が下野しており、政治基盤の弱い孫科政権*4であった。中央軍を掌握していた蒋介石に比べ、孫文の息子という以外に武力を伴う政治力を持たない孫科は満州を日本に占領された上に上海でも日本に譲歩を迫られ民衆の支持を失うわけにはいかない状況にあった。抗日団体解散の要求を呑むことは孫科政権の命取りになる可能性が高く、呉鉄城上海市長が簡単に承認できる要望ではなかったのである。

村井倉松総領事は当初、これらの要求を回答期限付きで示して抗日団体が解散されない場合は「自衛行動」に出るつもりだったが、この前日の芳沢外務大臣とのやりとりで断念している。村井総領事はタカ派であったが、芳沢外務大臣に日本人居留民の暴行の厳重取り締まりを訓示されて憤懣やるかたない思いであった。

民国日報と日本海軍陸戦隊、日本海軍第一遣外艦隊

民国日報は1月21日、前日(1月20日)の日本人居留民による三友実業社襲撃放火事件の犯人を日本海軍陸戦隊だとして報道している。戦後の田中隆吉証言によると、三友実業社襲撃放火には海軍陸戦隊ではなく重藤陸軍憲兵が関わっていたとされる。
これに対し、海軍陸戦隊司令官の鮫島具重大佐は土山広端中尉を民国日報社に派遣し、主筆の銭滄碩に謝罪と責任者処罰を要求している*5
さらに日本海軍第一遣外艦隊司令長官の塩沢幸一少将も同日、村井総領事の要望を中国側が承認、履行することを求め、

本職は上海市長に、帝国総領事の提出せる抗日会員日本僧侶暴行事件の要求を容れ、速やかに満足なる回答並びに其の履行を要望す。
万一之に反する場合に於いては帝国の権益保護のため適当と信ずる手段に出づる決心なり

と声明を出している*6。既に脅迫以外の何物でもない。
塩沢幸一少将の声明は、ただの脅しではなかった。声明と同日、海軍省に以下の対応案を上申している。

1.呉淞沖にて、中国商船、ジャンクに対して必要な封鎖を行う。
2.抗日会本部、支部に弾圧を加える
3.飛行機にて、示威偵察を行う
4.状況により、租界外在住邦人の保護を行う
5.中国側が積極的行動をとる場合は呉淞砲台を占領する

海軍省は「1」と「5」は認めなかったが、「2」〜「4」は認め、巡洋艦「大井」、駆逐艦「萩」「藤」「薄」「蔦」の5隻の上海派遣を決定する。しかし、上記はいずれも中国の主権を著しく侵害する措置であった。

*1:右翼団体

*2:柳条湖事件のこと

*3:満州事変」臼井勝美、P152

*4:当時、行政院長。第一次上海事変勃発の1月28日に退陣した。

*5:日中戦争2」児島襄、P180

*6:満州事変」臼井勝美、P153、「日中戦争2」児島襄、P180