日本人居留民の反中デモ及び暴動
1932年1月18日の中国人による日本人僧侶殺傷事件、1月20日の日本人右翼による中国人経営の三友実業社工場襲撃放火事件及び上海共同租界工部局中国人警官殺傷事件。
これらの事件後の1932年1月20日、反中感情に染まった日本人居留民は大規模なデモを起こしている。
他にも排日関連の事件は起きているが、少なくとも上記三事件に関する限り、日本人側被害が1人死亡*1、7人負傷*2に対し、中国人側は1人死亡*3、4人負傷*4、工場半焼という状況であって、日本人だけが一方的な被害を受けているわけではない*5。
1月20日のデモにも上海青年同志会などの右翼団体の煽動があったのは間違いなかろう*6。
日本人デモ隊の集結
1932年1月20日、日本人倶楽部で居留民大会が開かれ、次の決議がなされた。
不敬記事事件に次ぐに邦人傷害事件*7を以ってし今や抗日暴状其の極みに達す。帝国政府は最後の腹を決め直ぐに陸海軍を派遣し自衛権を発動して抗日運動の絶滅を期すべし。
この内容だけでも過激だが、これで閉会にはならなかった。閉会間際になって、これから総領事館に行ってこの決議の実行するとの確答を総領事に求めようと言い出した者がいた。誰が言い出したかは不明だが、青年同志会や国粋会と言った右翼団体の関係者であろう。
居留民大会に集まったのは、約2000人だったが*8、総領事館に押しかけようとの提案に賛同し同行したのは、300〜400人程度であった*9。
当時、右翼団体・青年同志会の上海在住の会員数は約180人。その他、国粋会などの右翼団体や大陸浪人などをあわせれば300〜400人くらいにはなっただろう。
村井倉松総領事の回答
総領事館に押しかけた右翼デモ隊300〜400人に対し村井倉松総領事は「趣旨には賛成なるに付き出来る事は実行す」と回答している。児島襄が評するように「善処する」と言う政治家的な回答であるが、右翼デモ隊はここでは一応満足したようで、万歳三唱を唱えている。
しかし、右翼デモ隊はさらに日本海軍陸戦隊本部に向かった。
「どんな些細な挑発も容赦せぬ、人ふるれば人を斬り、馬ふるれば馬を斬る、といった心境であった」と当時の参加者は回想しているという*10。
そのような殺気立った雰囲気であったため、総領事館は警察官を右翼デモ隊に配し、さらに共同租界工部局も警察官を繰り出した。
日本人デモ隊の暴徒化
日本総領事館から海軍陸戦隊本部に向かって、北四川路を北上している際に事件が起きている。北四川路両側一帯は正式には租界ではないが、北四川路という道路が越界路として租界同様の位置づけになっている。越界路に面した地域も租界同様であるというのは列強の帝国主義的圧力を背景にして事実上認めさせていただけに過ぎない。
このため、北四川路両側には日本人の家も多かった一方で、中国人の家も多数あった。
その中国人商店のひとつから、日本人デモ隊に対し銅銭が投げ入れられたという。
外務省の報告では以下のように記載されている。
靶子路付近に差掛るや支那人商店二階より一行に対し銅幣を投げたるものありしやにて激昂せる数名の邦人は警官並びに警戒中の陸戦隊兵士の制止をも聴かず同商店に闖入し(略)
銅幣、つまり銅貨を投げ込んだ者がいた、とデモ隊が騒いで中国人の店を襲撃したのであるが、記載は伝聞調であって警官らが見たわけでもなく、銅貨によって誰かが怪我をした様子でもない。ほとんど言いがかりで中国人商店を襲ったとしか思えない状況であるが、これが児島襄の「日中戦争2」では次のように改ざんされている。
中国人靴店と隣の洋品店の階上から、ビールびん、棒きれが投下された。
「銅幣(コイン)」が「ビールびん、棒きれ」に差し替えられ、中国人側が挑発したと断定されている。児島襄はおそらく当時の参加者に取材したのだろうが、一方で外務省の記録も調べたはずである。公式記録上の「銅幣」を無視して「ビールびん、棒きれ」を小説に採用したのは、児島襄の対中差別感情の現れだろう*11。
上の外務省報告の続きにはこうある。
靶子路付近に差掛るや支那人商店二階より一行に対し銅幣を投げたるものありしやにて激昂せる数名の邦人は警官並びに警戒中の陸戦隊兵士の制止をも聴かず同商店に闖入し階上階下の窓硝子其の他を破壊し更に北四川路筋の支那人商店数軒の「ショーウィンドー」並び電車バス等にも投石損傷せしめ又工部局警察官とも衝突して外人巡査一名及び支那人巡捕二名を殴打負傷せしめ陸戦隊本部に到り鮫島指揮官に会見陳情を遂げたるが大部分の者は退散せず更に日本人倶楽部に引返し協議する所あり。七時頃漸く退散せり。
ここまで来ると日本人デモ隊は暴徒としか言いようがなく、上海日本人居留民の行動の横暴さは明白である。それでも児島襄はあからさまに居留民側を弁護するような記載をしている。
「日中戦争2」P179
(ショウ・ウィンドウを破壊した後)
つづいて隊伍をととのえて行進していると、後方から工部局外人警官(インド人、マレー人)十三人が走り寄り、数人の頭を警棒でなぐりつけた。
うぬッ――と、居留民団は方向転換すると、十三人の警官のうち、逃げおくれた二人をふくろだたきにした。
興奮と戦意で双眼を充血させた一行が、行進を再開すると、行きかう電車、バスの車掌が吐き出す罵言を耳にした。
くそッ――と、居留民団は歯がみし、近づく電車二輌、バス一輌を襲撃した。
おそわれた電車、バスの車掌は、居留民団に悪罵をあびせていない。あびせたのは先行車であり、とんだとばっちりである。
だが、居留民団は、いっさい構わずに電車、バスの窓硝子を破壊して立ち往生させ、三たび隊列を整頓して行進を続行した。
まるで、日本人右翼デモ隊は整然と行進していたにも関わらず、いきなり警官に殴られたり、罵詈雑言をあびせられたかのような記載であるが、外務省の報告は銅銭を投げられたらしい、というだけで中国人の商店を破壊し、制止に入った工部局警官を殴打負傷させ、さらには電車・バスに投石するなどの無茶苦茶な行動であったとされている。
児島の記載は、暴動を起こした当事者に対する取材が元と思われ、加害者側の一方的な主観に基づいていると見るべきだろう。
1月20日早朝の三友実業社襲撃放火事件、工部局中国人警官殺傷事件に続く、20日午後の北四川路日本人居留民暴動事件は、上海の中国人らの抗日感情を一層悪化させた。