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上海青年同志会の正体

1932年 第一次上海事変 暴力団 右翼

以前、テロ活動で上海事変を煽った青年同志会は大陸浪人か右翼団体の類であろうと書いたが、それが事実であることを確認した。

三友実業社襲撃放火事件の首謀者である上海青年同志会会長の光村芳蔵は、当時46歳。本籍地は大阪である。
第一次上海事変勃発直後の2月2日、上海青年同志会の日本在住の会員ら*1が、対外同志会の頭山満*2黒龍会内田良平*3池田弘寿*4、愛国勤労党*5本部と言った右翼団体を訪問し、さらには陸軍省の川村大佐や海軍省の岡野中佐をも訪ね上海事変に関する強硬論を展開している。
しかし、既に上海に火がついた1932年2月の時点で日本軍にとって紛争を煽る右翼団体は用済みとなり、2月9日、上海青年同志会は解散させられてしまう*6

一方、三友実業社襲撃放火事件(1932年1月20日)、上海共同租界工部局警察中国人警官殺傷事件(1932年1月20日)と言った対中国テロ事件を起こした上海青年同志会であるが、首謀者である光村芳蔵ら7人*7は、上海の日総領事館に匿われ、上海市政府公安局の追及も上海共同租界工部局警察の手も逃れている。
7人の右翼テロリストらに対して、日本総領事館内では一応予審が開かれ、3月9日に上海から長崎地方裁判所に送致*8され、5月25日に第一回公判が開かれている。6月3日に出た判決*9は、光村芳蔵に懲役1年6ヶ月、他の6名には懲役1年執行猶予3年という極めて軽いものだった。それでも光村芳蔵は執行猶予がないことを不服とし即日控訴する図々しさを示している。
6月4日、執行猶予のついた6名は浦上刑務所から釈放され、控訴した光村芳蔵も6月7日には保釈されている。光村芳蔵の控訴の結果は11月9日、長崎控訴*10で原審通り懲役1年6ヶ月となったが、本人不在という状況であった。*11

ところで、別の資料*12では、光村芳蔵は1932年2月のうちに上海から日本に戻ってきていることが確認されている。2月9日に上海青年同志会が解散させられたことにより、日本との連絡がつかなくなったことに焦ったのか、光村芳蔵は2月25日に東京に出向き、右翼団体・大化会の会員辻嘉六や前南京居留民会長の須藤理助を訪問した後、弁護士である広瀬徳蔵宅に一泊している。
広瀬徳蔵は民政党の有力議員でもあり*13、光村芳蔵は自らの処遇に対する助力を要請したのだろう。広瀬徳蔵がどう対応したかは不明であるが、多少の金を光村芳蔵に都合したとの記録が残っている。
翌2月26日には、右翼の大物頭山満宅を訪問するが、不在のため会えていない。実際に不在だったのか居留守かは不明で、役目を終えた光村芳蔵を頭山満が切り捨てたのかも知れない。
頭山満に会えなかった光村芳蔵は次に予備役陸軍少将の山口十八を訪ねた後、東京を離れている。
東京にいた上海青年同志会の会員のうち西栄次は2月11日に上海へ旅立ち光村芳蔵の在京時には不在だが、他の会員は東京にいたはずなのに光村芳蔵がこの時に会ったという記録が見当たらない。上海青年同志会は上海での反中感情を煽り、日本の軍事介入を求めるだけの役割だけを担い、目的達成後は代表光村芳蔵ごと切り捨てられたとも言える。

元会員の長澤国一は4月20日ごろに満州長春へ旅立ち、山本義朗も5月5日に京都市東山の右翼団体神州報国会の下となった*14。山口清治病臥中だがも上海行きを予定しており、長尾衛は義兄の下に滞在し、日蒙協会会長石塚忠の下で事務をしつつ、3ヶ月後には奉天に出向く予定となっている。

これらの資料は、第一次上海事変に絡んだ右翼団体と日本軍、在郷・退役軍人、政治家らの裏のつながりを今に示している。

上海青年同志会の規模

1932年9月の外務省報告*15によると、事変後9月までに、諭示退去9名、任意帰国112名、満州へ退去7名、朝鮮へ退去9名で、上海に残っているのは40名余りとある。したがって、上海事変勃発当時に上海にいたのは約180名程度の規模だったということになる*16

*1:長尾衛、山口清治、山本義朗、長澤国一、西栄次

*2:日本のアジア侵略の精神的指導者となった右翼の大物

*3:日本のアジア侵略の尖兵的役割を果たした行動派右翼の大物

*4:1918年に朝日新聞社長の村山龍平を襲撃したことで名を上げた右翼テロリスト

*5:後に神兵隊事件を起こす右翼団体

*6:アジア歴史資料センター外務省記録「本邦ニ於ケル反共産主義運動関係雑件 16.元上海日本青年同志会」レファレンスコード B04012988300

*7:光村芳蔵(46歳)の他に森正信(27歳)、北辻卓次(22歳)、関恒太郎(40歳)、木下勘三(40歳)、畑谷猶一(31歳)、原貞治(32歳)の6人。森と北辻は警官殺傷事件の際に負傷している。

*8:下川司法領事付き添い

*9:長谷川裁判長

*10:堀裁判長

*11:アジア歴史資料センター外務省記録「2.上海/1 昭和6年10月から昭和7年3月」レファレンスコード B02030234100

*12:アジア歴史資料センター外務省記録「要視察人関係雑纂/本邦人ノ部 第十二巻 16.光村芳義」レファレンスコード B04013129700

*13:宝塚尼崎電鉄,大阪土地建物などの役員もつとめている

*14:2週間後には再度上海に向かうらしいとの報告あり

*15:アジア歴史資料センター外務省記録「1.在上海居留民関係/9 昭和7年5月23日から昭和7年9月16日」レファレンスコード B02030198400

*16:ただし、事変開始後に上海に来た者もいたかも知れない。