日本山妙法寺と田中隆吉・川島芳子*1の謀略の関連

以前、以下のように書いた。

しかし、おそらく日本山妙法寺も謀略に加担したのではないかという主張がどこかにあったのだろう。それで「それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。」と言ったと思われる。天崎啓山氏らを襲った中国人が買収されていたかどうかなど、日本山妙法寺には知りえないはずなのだ。

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101106/1289048573

これに関して、川島芳子の妹にあたる愛新覚羅顕蒅の言があった。

1931年12月17日、川島芳子は上海に戻り、田中隆吉と上海で事件を起す計画練っていました。 翌年1月18日夜、彼らは日蓮宗の天崎啓升和尚、水上秀雄等信者総勢5人に命じ、上海三友実業本工場の前で挑発行動を行わせました。 上海語が出来る川島芳子が三友実業の数十名の従業員にこれら僧侶を襲撃するようけしかけ、水上秀雄は重傷を負って死にました。 これが“一・二八”事変の導火線となった――“和尚事件”です。

“和尚事件”が起った後、田中は川島芳子を通じて上海在住の日本人に金を手渡し、重藤千春憲兵大尉にこれら日本人の指揮をさせ、犯人逮捕を名目に三友実業社に火をつけ焼き払いました。

http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2008/12/post-13ba.html

愛新覚羅顕蒅、1932年当時は満州にいて川島芳子や田中隆吉、河本大作、多田駿、筑紫熊七などの軍人と面識があった。当時、13、14歳であった愛新覚羅顕蒅、川島芳子本人から上海事変での謀略について聞いていた可能性はあるだろう。
しかし、一方で愛新覚羅顕蒅の姉・川島芳子について虚言癖があると言われていたとも書いている*1
日本山妙法寺が謀略に乗って中国人に対する挑発行動を行ったというのは、川島芳子が愛新覚羅顕蒅に語った虚実取り混ぜた”お話”にすぎないように思う。

*1:清朝の王女に生まれて」P37