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Wikipediaの問題記述

Wikipediaの「上海事変」の項に以下の記述がある。

事変の起きる前の日本と列強との関係について、日本側資料では「上海事件の起こる前に於ける日本と各国との関係は、頗る良好にして、即ち居留地外は上海市長呉鉄城の支配権内に在るも、居留地内は工部局が行政権を握り、其の執行機関たる参事会員は外人9名支那人5名を以て組織せるものなるが、各国人も予め支那側の横暴なることを熟知し日本に対し同情せり。」としている[1]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

1932年、上海市郊外に、蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上に達していた。蔡廷鍇は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石も蔡廷鍇を警戒していた。

日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣した。また、住民の生命や財産を守るために、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していたが、その合理性から共同租界の防衛委員会では問題とされなかった。

共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせた。蔡廷鍇は、給与が支給されるまでは去らないと通告した[2]。しかし、蔡廷鍇の目的は未払いの給与の支払いだけではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが共同租界防衛委員会の全員の意見だった[2]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

脚注は以下の通り。

[1]. 昭和7年2月10日の枢密院「上海事件ニ関スル報告会議筆記」大角海軍大臣発言。原文は句読点及び濁点等なしの片仮名書きであるが、句読点及び濁点等を付し平仮名に改める。また算用数字に改める。
[2]. ハリエット・サージェント『上海―魔都100年の興亡』浅沼昭子訳、新潮社、1996年10月

総論としての問題

Wikipediaの当該記述は総じて、<上海事変は蔡廷鍇が上海利権を手に入れるために引き起こした>、<蒋介石は日本との戦いを避けたがったが蔡廷鍇が勝手に行動した>、<日本は防衛のためにやむなく出動した>、<共同租界は日本の行動を合理的と支持した>と言った論調になっている。
しかし、蔡廷鍇の第19路軍が上海付近に移駐したのは、対中共作戦で受けた損害を回復・休養させるためであり、蒋介石が広東地方政権との合作交渉に入る前提として、広東軍でありながら蒋介石とも良好な関係であった蔡廷鍇の第19路軍を重要都市・上海付近に移駐させたのである。
蒋介石が日本との戦いを避けたがっていたのは確かであるが、蔡廷鍇も望んで戦端を開く意図があったとは考えられない。このことは対中共戦で大損害を受けた後であり、上海付近には78師の一部しかいなかったことからも容易に判断できる。
日本軍の出動は防衛のためと主張していたが、実際には租界領域を上回る範囲への進駐であり、武力衝突回避の意欲も薄く侵略意図が明白であったと言える。
共同租界が当初日本軍の行動を支持したのは、日本軍進駐による威圧で租界領域をさらに広げることができ、租界回収を求める中国ナショナリズムを排除するのに利用できると考えた打算のため。特に1927年に上海の労働者らが上海の実権を一時的に握ったときの忌まわしい記憶が、共同租界を日本軍支持に動かしたと言える。しかし、共同租界の日本軍に対する期待も、戦火に伴う日本軍の横暴な行為や武力的背景をもって上海での優先権を主張する日本を見て反感に変わっている。

そもそも共同租界は実際には欧米列強の政府代表ではなく、上海で利権を握っている外国人らによる自治組織に過ぎない。このため、共同租界はしばしば本国政府と見解を異にしている。
児島襄など日本の右よりな論者はよく日本軍の進駐について共同租界の了解を得ていたことを持って、日本の行動が国際社会からみとめられていたかのような主張をするが、実際には共同租界の方が国際社会から孤立し既得権にしがみついた利権団体であった。

記述ごとの問題 1

1932年、上海市郊外に、蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上に達していた。蔡廷鍇は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石も蔡廷鍇を警戒していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

これは、脚注にも挙げられているハリエット・サージェントの「上海―魔都100年の興亡」からほとんど丸写しである。同書269ページの対応する記述は以下の通り。

(略)
三連隊、三万一千人を擁する広州軍が、ほとんど偶然のように、上海の岸辺に打ち上げられたのである。五年前の国民党軍のように、市民はその意図に警戒心を抱いた。
 日本軍は、長身の四十そこそこの指揮官、蔡廷鍇との交渉を開始した。蔡は、果敢で朴訥な将軍で、彼の答は関係者全員を驚かせた。「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言ったのである。しかし、それは偽りだった。十九路軍に命令する者は彼以外にいなかったのである。しかも蔡将軍が日本軍との戦いを望まない蒋介石の代弁者でないことは明らかだった。蒋介石にとっては、中国共産党が真の敵、永遠の敵だったのである。
 蒋介石は気短な神託にあらゆる祝福を予言されたかのように、有能な美しい妻、裕福で寛大な友人、それに世界一の強国との友好関係に恵まれることを期待していた。彼を破滅させるものは、共産主義以外にはなく、彼は何よりも、共産主義の打倒に精力を傾けて、その予言を実現しようとしたのである。蒋介石上海市の行政府に劣らず、十九路軍を警戒していた。

「三連隊」というのは誤訳と思われ、実際には三個師団である。Wikipediaの「1932年、上海市郊外に、蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れた。」の記述は、Wikipedia編集者の追記であろうが、明確な間違いであり、19路軍が上海付近に進駐したのは1931年10月である。
蔡廷鍇の「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」という発言は、文言はそのままだが、「上海―魔都100年の興亡」では前後の文脈*1から蔡廷鍇が外国の圧力に従わない姿勢を示した、と好意的な記述である*2のに対し、Wikipediaでは蒋介石や中国政府に従わないただの軍閥の一人であるかのような記述となっている。

Wikipedia編集者のこの記載は、「上海―魔都100年の興亡」からの中途半端なつまみ食いであって盗作かあるいは改変といってよい質の低い代物と言える。

記述ごとの問題 2

日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣した。また、住民の生命や財産を守るために、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していたが、その合理性から共同租界の防衛委員会では問題とされなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

ここも「上海―魔都100年の興亡」270ページの記述からであろうが、やはり意図を捻じ曲げた論調になっている。

防衛委員会は、まもなく佐世保から日本の巡洋艦一隻と、駆逐艦十二隻が到着するというニュースのほうが無視した。日本軍が、日本人住民の安全とその財産を守るために、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言しても、防衛委員会は動じなかったのである。彼らにとって、日本の提言は彼ら自身の一九二七年の行動と同様、道理に適っていたからだった。

「上海―魔都100年の興亡」では、防衛委員会が日本の意図を理解できなかったことを防衛委員会つまり上海の外国人の目が曇っていたと否定的に評価しているのに対し、Wikipediaでは単純に<日本の行動が合理的であったから認められた>と日本軍の行動を正当化するのに用いている。ここも悪質な改ざんであるか、Wikipedia編集者が「上海―魔都100年の興亡」をろくに読まずに都合の良い部分のみをつまみ食いしたかどちらかである。
第一次上海事変開始に至る共同租界の行動について「上海―魔都100年の興亡」での評価は288ページなどに表れている。

外国人は中国人の戦争を公然と侮っていたが、そのために必要とされた、こけ脅しと詭弁の混った戦略は、上海の資力と性向に合っていた。
 しかし、今回は多少事情が違った。仲間の一員が中国を攻撃するために共同租界を利用したのである。世界中の新聞が突然に、中国人を残酷で強欲な軍閥としてではなく、本来の意味での中国人として書き立てた。上海の外国人社会はその変化に圧倒された。愛国心を前面に押し出し、作法通りにインタビューをこなせば、あらゆる難点を隠すことができるのだろうか。上海の外国人社会には不愉快な論調だった。彼らにとっては十九路軍もまた暴徒にすぎなかった。遅かれ早かれ、暴徒は退散すると考えていたのである。
(略)
 彼らは閘北が廃墟と化してもなお、日本の軍部は制御の可能な玩具であり、日本は行儀のよい、おとなしい子供であると考えていたのである。

もっと単純に言えば、日本軍進駐の「合理性」を判断したのは「上海―魔都100年の興亡」では「防衛委員会」であるのに対し、Wikipediaではそれを隠し普遍的な事実であるかのように偽装している、これが問題である。

*1:本全体を通して、市参事会や日本軍に対して批判的

*2:戦闘開始後の記述では蔡廷鍇を英雄として好意的に評価している。それを踏まえると、蔡廷鍇の言う中国政府とは蒋介石個人ではなく、中国民衆を代表してこそ中国政府とみなしている、という台詞に解釈できる。