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日本人僧侶殺害事件

1932年 第一次上海事変

1932年1月18日午後4時過ぎ、上海楊浦の馬玉山路(現・双陽路)にある三友実業社というタオル工場の前で、日本人の日蓮僧と信者5名が三友実業社の従業員らの暴徒に襲撃され死傷した事件。
襲われた日本人は、僧・天崎啓昇(日本山妙法寺の上海布教主任)、水上秀雄、信者・後藤芳平、藤村国吉、黒岩浅次郎の五人。このうち、僧・水上秀雄は24日に死亡、僧・天崎は全治6ヶ月、信者・後藤は全治1年の重症を負った。後藤、藤村は逃亡して無事だった。
この事件は、関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐が上海駐在陸軍武官補佐官の田中隆吉少佐に依頼し、謀略で発生した事件でもある。
板垣大佐の目的は、満州事変から国際世論の目を上海に反らすことであった。

謀略の内容

上海駐在武官補佐官である田中隆吉少佐が板垣大佐から送金された二万円を川島芳子に渡し、まず三友実業社の従業員らに日蓮宗の托鉢僧を襲うよう依頼した。三友実業社は元々共産主義者らの影響が強く抗日運動の拠点と見られていた会社であり、上海に進出している日本の紡績会社にとってのライバル会社でもあった。
このため、三友実業社の従業員らは簡単に謀略に乗り、18日に事件を起こしたのである。
田中少佐はさらに、三友実業社のライバルである鐘紡上海事務所(鐘紡公大紡績株式会社)から10万円を出させている。これは実際には上海居留民団内の右翼団体暴力団に流れたものと見られ、この日本人僧侶襲撃事件の直後の1月19日に居留民団内の光村芳蔵ら「青年同志会」の会員32名が三友実業社を焼き討ちし、さらに翌20日午前3時には中国人警察官を襲撃して2名を殺害している(この他重傷者2名。居留民側も簗瀬松十郎が死亡、北辻卓爾、森正信ら2名が重傷)。居留民団は拳銃、日本刀で武装していた。

児島襄の「日本人僧侶は道を間違ったのに襲撃されたから謀略は疑わしい」説

児島襄によれば、日本人僧侶の18日の目的地は平凉路の東端近くにあった鐘紡公大第一廠工場であり、華徳路(現・長陽路)から馬玉山路(現・双陽路)を経て三友実業社前を通ったのは道を間違えたためという*1
にもかかわらず、事件当時三友実業社前に従業員がたむろしていたのはおかしい、というのが児島の主張である。

しかし、華徳路(現・長陽路)と平凉路は約400m程度しか離れておらず、事件当時日本人僧侶はうちわ太鼓を叩いていたため、襲撃を持ちかけられた三友実業社の従業員らが付近に散らばって見張っていれば簡単に見つけることができたし、見つけたら三友実業社から駆けつけるつもりで三友実業社前にたむろしていたのなら何の不思議もないだろう。
三友実業社は敷地面積2万平米のそれなりに大きな工場であり、虹口地区から鐘紡公大第一廠工場に向かうなら近辺を必ず通らざるを得ない。その意味では、田中少佐が鐘紡から10万円を受け取っているというのも興味深い点である。
実相は、鐘紡はライバルの中国人企業を潰すために10万円を出し日蓮僧を自社工場付近に呼び出し、日本人右翼・大陸浪人らは上海租界での非合法暴力組織の影響力強化をはかり日本軍から金を受け取り、日本軍は謀略によって上海に不穏な状況を作り出すとともに日本企業に有利なテロを日本人右翼らに唆した、というものであろう。

児島襄は田中謀略説を明確に否定してはいないものの懐疑的な記述をしている。これは児島の思想的な側面の現れである*2

*1:日中戦争2」P174

*2:児島は南京事件についても否定的な記述をしている。