読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

第一次張北事件の概要

1933年5月31日の塘沽停戦協定以降も察哈爾省と熱河省の境界は不明瞭であったため、満州国軍・関東軍と宋哲元軍との間で小規模な衝突が頻発していた。このため、察哈爾省中心部の張家口と張北は宋哲元率いる第29軍によって厳重に警戒されていた。

1934年10月27日、日本軍支那駐屯軍の高級参謀である川口清健中佐*1の一行8人が張北城南門に来て、衛兵に対し内モンゴル地方調査を目的としてドロン(多倫)に向かうことを伝えた。しかし、川口中佐らは中国側の関係方面に所定の報告をしていなかったため、厳重警戒体制の下で緊張していた衛兵と保安隊は川口中佐らに身分証などの提示を求めたが、以前は必要なかったとして川口中佐らは提示に難色を示した。
警戒態勢にあった衛兵や保安隊員は、証明書の提示を拒んだ川口中佐一行を怪しみ、銃を向けたり青竜刀を抜いてりしてあくまでも証明書の提示を求めた。取調べは40分程度続き、保安隊の中隊長は通訳から支那駐屯軍参謀であることを確認した後、川口中佐一行を釈放した。

中国側保安隊による正当な行為に過ぎず本来なら問題になるはずのない事件だったが、二日後の1934年10月29日、張家口に駐在する日本の代理領事が、張北を管轄する趙登禹(132師師長)に対し抗議し、続いて北平駐在の日本武官も宋哲元に対し、強硬な抗議を行ってきた。日本の朝日新聞も1934年11月1日に趙登禹麾下の保安隊員による不法行為があったと激しく非難する記事を出し、日本の対中世論を煽っている。
1933年7月以降、察哈爾省北部を中心に内蒙自治問題を抱えている状況で日本軍の介入を恐れた宋哲元は、第一次張北事件の拡大を望まず、趙登禹に日本軍への謝罪を命じ直接担当した保安隊中隊長を罷免した。

第一次張北事件は宋哲元に対する日本軍の言いがかりであったが、宋哲元は迅速に対応し、日本軍も内蒙工作の方針を決めていなかったこともあり、大事に至らず解決した。

"第1次張北事件と宋哲元の立場"

*1:この川口清健中佐は、後の太平洋戦争でガダルカナル島の奪回戦に参加した川口支隊を指揮した人物である。川口支隊は総攻撃に失敗して大損害を受け、川口少将(当時)は指揮官を罷免、1942年11月7日、ガダルカナル島を離れ終戦まで閑職にあった。戦後の1961年に没。