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第1次張北事件と宋哲元の立場

1934年 華北分離工作 察哈爾省

日本軍が熱河省を占領した1933年5月、遠く南京にあった蒋介石は抗日を先延ばしし、何応欽を通じて日本軍との停戦協定を結んだ。塘沽停戦協定である。
華北の民衆の抗日意識は高まり北方軍閥の諸将領も抗日の覚悟を決めつつあったが、蒋介石の国民政府の支援が期待できないことが明らかになり、またしても隠忍を迫られることになった。抗日の決意で兵を集めて前線に到着した馮玉祥、方振武、吉鴻昌らが率いる察哈爾民衆抗日連合軍に至っては、逆に蒋介石からの圧力を受け解散させられている。
察哈爾省の東境が日本軍・満州国軍と直接接するようになり、察哈爾省の民衆は非常に危機感を抱いている状況のため、そこを統治する宋哲元軍の一派も察哈爾・熱河省境で日本軍、特に関東軍満州国軍と小競り合いを繰り返した。

1934年11月には馮治安の部隊が熱河省を侵犯したとして、関東軍は第25連隊(連隊長:永見俊徳大佐、古北口方面警備・第7師団麾下)を大灘西方20kmにある断木梁という部落に派遣した。しかし、大灘西方20kmと言えば、既に察哈爾省の沽源県である上、満州国を認めていない中華民国の立場から見ても明確な国境線なるものが察哈爾と熱河の間にあったかどうか疑わしい。
その意味では、馮治安の国境侵犯というのは関東軍による言いがかりに近く、実際、出動した関東軍は省境を越えて察哈爾省の中心都市、張家口に迫る勢いを見せた。

この前月の1934年10月、日本の支那駐屯軍参謀・川口清健中佐率いる8名の斥候が察哈爾省に進入し、地図作成などの偵察行動を行っていた。10月26日張北付近で、川口隊の行動を怪しんだ宋哲元の第29軍麾下の第132師(師長:趙登禹)の兵士が、川口隊の一行を拘束した。川口中佐らの行動は明らかなスパイ活動であったが、日本軍の高級将校であることを知った宋哲元は一行を釈放している。
この時の伝を利用して宋哲元は関東軍の察哈爾侵攻を留めるよう支那駐屯軍にとりなしを求め、結果、第25連隊は停止している。

しかし、この件で宋哲元は、梅津美治郎少将・支那駐屯軍司令官や酒井隆大佐・軍参謀長、川口清健中佐・高級参謀らに恩を着せられたことになり、華北分離工作に対する政治的抵抗力を失っていくことになる。

1934年10月26日に張北で川口清健中佐らが逮捕された事件は、後に第一次張北事件として察哈爾省への日本軍介入の口実に利用されることになる。