1931年ころの綏遠省の状況

綏遠省は現在では内モンゴル自治区の一部となっている。
内モンゴル内蒙古)地方は清朝時代前半、蒙古人の土地とされ、開墾が禁止されていた(蒙地開墾禁止政策)が、雍正帝治下の1724年には漢人農民による内蒙古の放牧地開墾が許可されている。これを「借地養民」と言う。さらに清朝末期までに「移民実辺」政策という漢人農民による内蒙古放牧地の大規模な開墾が進められ、その結果辛亥革命直後の1912年時点での内蒙古人口240万人のうち155万人が漢人となっていた。清朝政府のこれらの政策は、農地を開墾させることにより開墾税・土地税の財源と国境防衛の二つの目的を持っている。国境防衛とはすなわちロシア帝国への懸念である。
清朝政府の目的が何であれ、放牧を主な生業とする蒙古人と農業を主な生業とする漢人の軋轢は、清朝後期にはすでに始まっており、辛亥革命後に独立を果たした外蒙古に対し人口の大半が漢人である内蒙古は独立できず、外蒙古内蒙古との合併に消極的であった。外蒙古内蒙古の分断には、日本とロシアによる帝国主義的分割の影響もあるが、人口比率も重要な要因だった。

辛亥革命後も内蒙古への漢人農民の入植は増え続け、1937年には内蒙古総人口463万人中、漢人は372万人と実に80%を占めるに至っている。
傳作義が主席となった綏遠省も、1912年に63万人であった人口が1928年には212万人に増加しており、その内150万人以上は漢人だったと見られる(1936年には208万人と公式統計上は若干減少)。
傳作義は、綏遠省主席が内定していた1930年11月、南京で開かれた国民党第3期第4回中央委員会全体会議(国民党三期四中全会)に出席し、移民実辺政策を進め、生産力を発展させると共に国防を強化する提案している。綏遠省人口は1936年までにほとんど増えてはいないが、水路の整備など農地開墾や政府組織の改革を進めている。
しかし、農地開墾により放牧地を失った蒙古人たちは、放牧の伝統を捨て農業に転化するか、優良とは言えない地域で放牧を続けるかの選択を迫られ、馬賊となったり独立運動に参加する者も現れるようになる。傳作義の対蒙古人政策については定かではないが、綏遠省西方の半独立状態の回族軍閥にも警戒せねばならず、北方のモンゴルではチョイバルサンによる急進的な社会主義改革による混乱があり、さらに満州事変以後は東方のチャハル省への日本軍勢力浸透にも警戒を要した状況で、綏遠省を税収増・治安回復に導いたことから硬軟織り交ぜた現実的な対蒙古人政策を取ったのではないだろうか。1937年7月の時点で綏遠省には、現金84万元、銀210万両があり、軍隊も良好な状態であったと言われている。

傳作義の経歴1
傳作義の経歴2