傳作義の経歴1

「伝作義」とも。また日本語読みは「ふさくぎ」が多いが「でんさくぎ」という読み方もされる。「傳」は中国語的には「フー」とも「チュエン」とも読むらしい。

傳作義は山西省の出身で1895年に生まれている。
1910年に太原陸軍小学で孫文思想の影響を受け、直後の1911年に起きた辛亥革命では太原起義に学生隊の排長として参加し娘子関で清国兵と戦った。
その後保定軍官学校に入り優秀な成績で1918年に卒業、山西省に戻り閻錫山率いる晋軍(山西軍)に参加した。当時は辛亥革命清王朝は倒れ、中華民国総統となった袁世凱も病死していた。袁世凱が率いていた北洋軍閥政府は強大ではあったが中国全土を支配するには及ばず、各地には軍閥が割拠していた。山西省を支配する閻錫山もそういった地方軍閥の一人である。
地方軍閥同士の争いは絶えず起こっていたが、1924年8月に勃発した第二次奉直戦争に傳作義も参戦している。

第二次奉直戦争は元北洋軍閥であった奉天派と直隷派の争いであるが、閻錫山の晋軍は直隷派に組して参加し石家庄に侵攻する。第二次奉直戦争の最中である1924年10月23日、直隷派の討逆軍第三軍総司令であった馮玉祥が突如北京政変を発動させ北京の総統府を包囲、曹錕(金昆)総統を監禁した。馮玉祥軍は国民軍を名乗り奉天派と協議し下野していた段祺瑞を迎え入れ孫文の北上を求めた。また紫禁城に残っていた元皇帝の溥儀を追放し、分裂していた南北統一を図ろうとした。しかし1925年3月に孫文が客死し、学生弾圧を強化した段祺瑞とも不仲となり1926年4月9日には段祺瑞排除のクーデターを起こす。これに対して張作霖率いる奉天派が馮玉祥の国民軍を攻撃し撃破、これに呉佩孚の直隷派が呼応し参戦、1926年5月には国民軍は北京北方の南口まで後退し、8月には南口から綏遠方面へと撤退していった。さらに1927年1月には閻錫山の晋軍も奉天派・直隷派連合軍に参加し国民軍攻撃に加わる。
北京から北西方向に後退する国民軍にとって平綏鉄道は重要な補給路であったが、綏遠省南方に位置する山西省にある閻錫山の晋軍から容易に直撃できる位置にある。閻錫山は傳作義率いる第8団に平綏鉄道沿線上の天鎮を占領させ国民軍補給路の遮断を図った。
ここで、傳作義は天鎮奪取を図る国民軍の宋哲元部隊の猛攻を3ヶ月に渡って防ぎ、防衛手腕を発揮した。この時まだ30歳そこそこである。

孫文思想に触れて育った傳作義は、閻錫山の晋軍に所属しているとは言え思想的には若干の差異が見られる。1927年当時、1883年生まれの閻錫山は40代半ばで傳作義とは10歳以上の差がある。山西モンロー主義を掲げた閻錫山は山西省の近代化には貢献したが民衆視点での政治からは遠く、地主制の延長としての初期資本主義からは抜け出ていない。
辛亥革命から15年以上経たにも関らず、未だ軍閥同士の抗争は終わっていない現状を当時の傳作義はどう見ていたのか。晋軍の指揮官として河北省や綏遠省の混乱を実地に見た経験は後に活かされる事になる。

傳作義が天鎮を国民軍の宋哲元部隊から防衛していた1927年、晋軍が連合していた奉天派が大敗北を喫する。奉天派を破ったのは孫文の国民政府を継承した国民革命軍であった。