日中平和友好条約とその後の日中韓台

米中間のピンポン外交が終盤となった1978年8月12日、日本と中華人民共和国の間に日中平和友好条約が成立し日中間の戦争はあらゆる意味において終結した。
中国共産党による対日宣戦布告(1931年)から47年、日中共同声明(1972年)までとしても41年。一般的に日中戦争の期間は、盧溝橋事件(1937年)からポツダム宣言受諾(1945年)までの8年間とされることが多い。満州事変(1931年)を考慮して足掛け15年(14年間)の15年戦争とも呼ばれる。国民党の中華民国が正式に対日宣戦布告したのは1942年。国家ではない中国共産党が対日宣戦布告したのが1931年。当時の日本はいずれに対しても宣戦布告すべき相手とはみなしていなかった。
1945年8月、日本は無条件降伏したが、満州では対日宣戦したソ連軍との交戦が続き、中国本土では中共軍に対する降伏を拒絶し、国民党軍に加担、国共内戦の前哨戦の一翼を担っていた。
その後、国共内戦が再開(1946年6月)すると、旧日本軍の第1軍系の部隊が国民党軍に協力して中共軍との戦闘を続けた。また、朝鮮戦争(1950年)では旧日本海軍系の掃海部隊が、非公式に国連軍に協力し共産軍と対立した。
さらに台湾に撤退した蒋介石の国民政府に対しても旧日本軍人を非公式な軍事顧問として送り込み中共と対峙した。反共を軸とした戦後日本の対外政策は、旧軍と隔絶したはずの自衛隊にも影響を与えている。公式な軍事同盟である日米安全保障条約によって自衛隊と米軍が緊密であることはよく知られているが、旧軍人や自衛隊OB、反共右翼勢力を通じた軍事政権期の韓国軍、国民党独裁期の台湾軍との関連はあまり知られていない。台湾・韓国との反共同盟的繋がりは非公然ながら暗黙の了解と言えるものだったが、日中国交正常化以降はより非公然化していき、民間団体や宗教団体を装った形式となっていく。
やがて、台湾・韓国が民主化すると、公式の軍事交流と民間交流に偽装した非公式交流は分化していき、公式交流は反共イデオロギー色が薄くなっていく。一方で非公式交流は、各国内の潜在的反共保守勢力との結びつきを強めるが、冷戦の終結(1991年)と共にイデオロギー色は薄まらざるを得なくなった。
特に正式な国交の成立している日韓関係では、イデオロギーと無縁の民間交流が激増し反共保守の民間交流団体は目立たなくなっている。逆に正式な国交が成立しない日台関係では、未だに反共保守イデオロギーを持つ民間交流団体が有力であるが、反共イデオロギーの色は薄まっており、そのようなイデオロギー意識の無い団体構成員も珍しくない状況となっている。