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阿部規秀中将の戦死

駐蒙軍に所属する独立混成第2旅団の旅団長・阿部規秀中将の戦死は1939年11月7日のことである。
場所は、中国河北省と山西省の境にある保定市淶源県(淶はサンズイに「来」)の黄土嶺。淶源県は北京から山西省省都・太原に続く街道上の山西省に入る手前にある。河北省と山西省の境には太行山脈が横たわり、自然の境界をなしている。
日中戦争において、日本軍は1937年中に河北省・山西省ともに制圧・占領したが、都市と街道・鉄道沿線の支配に留まり、主要沿線から外れた山地などの辺境区までは支配できなかった。
山西省戦役で日本軍は中国軍の戦線を打ち破り省都・太原を占領したが、その際に敗れた中国軍の一部は日本軍の戦線後方に取り残されることとなった。
取り残された中国軍部隊は、主要街道沿線から外れた山間部の村などに下がり、ここから日本軍戦線後方での遊撃戦を展開する。
もとより山西省戦役で戦った中国軍の多くは閻錫山の率いる山西省軍閥軍(晋綏軍)であったので、日本軍戦線後方とは言っても地理に明るく、住民の支援も十分に期待できる状況だった。また、晋綏軍と抗日で共闘した八路軍にとっても、日本軍侵攻により大地主らが避難した状況では土地改革をはじめとする民衆工作で支持を得やすい状況であった。
晋綏軍と八路軍は対立関係を抱えてはいたが、日本軍戦線後方での軍の維持のため住民の支持を必要とする点で一致し協力することになる。八路軍側も当初は急進的な土地改革は避け民主的政権の確立を推進し、晋綏軍側もこれを受け入れる。
例外はあるものの基本的に軍閥の手先であった晋綏軍は、地主の逃げた後の貧農住民の支持を得るため妥協せざるを得なかったと言える。これに対して八路軍は貧農の救済を掲げた中国共産党の軍隊であるため、学生などのインテリ層を通じて農民の支持を容易に得ることが出来た。
一方で、侵攻した日本軍であるが中国に比べてもともと兵員数が少ない上、前線部隊とその支援・輜重部隊に偏り、後方警備や治安・民衆工作を目的とした部隊が準備不足であったため、早期の民衆工作が十分にできなかった。
占領した町々で傀儡政権や支配層の懐柔は行ったものの民衆に根付くような工作は出来ず、また通過した前線部隊・後続部隊による略奪・暴行などが相次ぎ民心を離反させた影響が大きかったため、日本軍がいなくなると手のひらを返すように中国軍を支援することが多かった。
こうして、日本軍の戦線後方である河北省・山西省・チャハル省に跨って主として中国共産党が支配する広大な辺区が形成される。
しかし、日本軍は辺区の実態についてなかなか把握できなかった。鉄道や輸送部隊などが八路軍や国民党軍遊撃隊に襲撃され、日本軍が討伐に出撃しても敵の主力は補足できず、近隣の町に寄っても町は食糧や宿の提供に応じる「親日」的であったためである。
実際には、そういった「親日」的な町も日本軍に対して八路軍の情報を教えたりせず、逆に日本軍の動向を八路軍側に伝えたりしていた。そのような町を真に「親日」にするためには、ある程度時間をかけた宣撫工作と住民の生活支援や住民保護、自軍軍機粛正を必要としたが、日本軍がそれに気付くまでにはかなりの時間を要し、その時には既に住民の反日感情は取り返しのつかない状況になっていた。

このような状況の中、占領したはずの河北省・山西省・チャハル省での治安が一向に改善しないのは、中国軍の敗残兵や共産党系匪賊(共産匪・赤匪)のせいと見た日本軍は討伐を繰り返す。
1939年に実施された大規模な討伐作戦(治安粛正作戦)は、2月の冀中作戦、3月の晋北作戦、4月の五台作戦、6月の晋東作戦、7月の魯西作戦、11月の太行山作戦と次々と実施されている。
これらの治安粛正作戦を主として指揮したのは、日本側は北支那方面軍、中国側は八路軍晋察冀軍区である。

1939年11月の太行山作戦では、北支那方面軍駐蒙軍から独立混成第2旅団が参加している。
このような討伐作戦では前線は存在しない。八路軍は強力な日本軍部隊と正面から戦うことは避け、輜重部隊や司令部などを伏撃する遊撃戦を主としているため、日本軍は討伐のために八路軍支配地域に入った途端、全部隊が最前線と言える状況に陥ったのである。
独立混成第2旅団が討伐を行った淶源県は河北省保定市に属するが、広大な河北平原ではなく太行山脈中にある小さな平野部の町を中心とした、四方を山に囲まれた地形である。
この淶源県から山西省霊丘附近にかけての山地一帯を八路軍は根拠地としていた。
これに対する討伐のため、阿部中将は独立混成第2旅団から独立歩兵第2、第4大隊約1500人を率いて10月26日、張家口を出発し、まず霊丘南方の山地に展開していた八路軍第120師(師長:賀竜)を攻撃した。第120師は後退したが、日本軍は掃討し潰走させたと判断している。
続いて、11月3日には淶源南方の八路軍攻撃を企図した。
淶源南方にいると思われた部隊は、独立第1師(師長:楊成武)と独立第4師である。
八路軍晋察冀軍区の部隊は、その山地に潜み攻撃に最も有利な状況を待って攻撃した。特に大きな被害を受けたのは辻村部隊(歩兵2中隊、砲兵1小隊基幹)であった。
500名程度の辻村部隊は11月3日、10倍の八路軍(第1軍分区第1団、第3団、第3軍分区第2団)に包囲攻撃された。弾薬を消耗した辻村部隊は肉弾戦を余儀なくされ損害を重ね、戦死83、負傷49という大きな損害*1を出している。
これを知った阿部旅団長は辻村部隊救援に向うが、日本軍の来援を知った八路軍は直ちに後退してしまう。
阿部中将は直ちに追撃し、11月5日夜に張家牧を6日に司各荘を掃討し、黄土嶺まで進出する。
しかし敗走していたように見えた八路軍は実際には阿部中将の部隊を包囲網に誘い込んでいた。6日夜には八路軍による包囲が完成しており翌7日、阿部中将は八路軍が夥しく増員され*2至るところに中国兵がいることに気づいたが既に遅かった。
1939年11月7日、八路軍(第1軍分区第1団、第3団、第3軍分区第2団の他、第25団の一部)による攻撃が開始される。16時、八路軍第1団団長陳正湘は黄土嶺と上庄子の間にある一軒屋に軍刀を提げた日本軍指揮官がいることに気づいた。
直ちに配下の迫撃砲連に命じて砲撃を開始。
この砲撃により、阿部規秀中将は腹部・両足の十数か所に致命傷を負い、21時50分絶命した。

この砲撃を行ったのは、八路軍晋察冀軍区第1軍分区第1団の兵士・李二喜、当時まだ十代の若者であったが、この功績により抗日英雄として「神砲手」の称号を与えられた。
李二喜の所属した晋察冀軍区第1軍分区司令官は楊成武、晋察冀軍区司令官は聶栄臻であるため、阿部中将戦死は第1団団長陳正湘や楊成武、聶栄臻の戦果としても知られている。

*1:調査中の途中集計

*2:約3500人と推定している