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第二次上海事変(1)

通州での邦人犠牲は日本の傀儡である冀東政府保安隊の反乱に伴うもので200人ほどの民間人が犠牲になっている。宋哲元の第29軍でも蒋介石の中央軍でもないことから、通州事件に対する反感を中国政府に向けるのは筋が通らないものであったが、日本軍は加害者を「支那人の部隊」と公表することで、一般民衆に中国への敵愾心を抱かせることに成功した。そして、通州事件のプロパガンダは、中国に住む日本人たちの危機感を煽ることにもなった。当時、上海には数万人の日本人が住んでおり、英米仏の租界に列強の軍隊が駐留している他、日本軍も陸戦隊の他大規模な艦隊を展開していたものの、通州事件の報におびえ、日本軍による保護を求める日本人が増えつつあった。
華中・華南を担当範囲とする日本海軍は華北で大戦果を挙げている陸軍に対し競争意識から、上海在留邦人の要求を利用して陸戦隊の増強や陸上攻撃機の九州・台湾への配備を進めていた。中国空軍の動向を探ろうとした上海海軍陸戦隊西部派遣隊長の大山海軍中尉は、上海西方の中国空軍基地である虹橋飛行場に潜入するも哨戒兵に発見され交戦に至った。その結果、大山中尉他水兵1名の日本軍人2名と中国兵1名が戦死した。
虹橋飛行場は租界から遠く離れていたがそこに至る道路が租界工部局建設の越界路であったため、日本側は租界内で中国軍に待ち伏せされたと中国側を非難し、危機を煽り海軍艦艇を上海に集結させ、陸戦隊を続々と上陸させた。租界工部局は仲介に立って日中間の交渉が行われたが、日本側の強硬な態度に中国側も応じ京滬警備司令の張治中は1932年協定の非武装地帯内に保安隊以外の中国軍を配備し(8月11日、第87師、第88師及び二個砲兵団)、郊外に第55師、第57師、独立第25旅を配備して日本租界を包囲する態勢をとった。
1937年8月13日散発的な戦闘が開始され、台風の合間を縫って中国軍機が上海・黄浦江上の日本海軍艦艇を爆撃するが、爆弾が逸れ租界内を誤爆し、多くの犠牲者を出している。14日には本格的な戦闘に移り、日本軍は台湾、長崎から長距離爆撃機を飛ばし上海や他の都市を爆撃、都市無差別爆撃に対し国際的な非難が浴びせられたが、日本側も陸上攻撃機のみの単独爆撃行で多くの損害を出している。日本軍の爆撃が激しくなるのは上海の飛行場を占領した後である。
8月14日に蒋介石は自衛抗戦声明を発表し、対する日本は8月15日に中国膺懲声明を発した。
陸上戦闘は日本租界に陣取る海軍陸戦隊に対し、中国軍が北から半包囲して行われた。日本軍は国際租界を背後にしているため、中国側は闇雲に砲撃することができず、またそもそも重砲に不足している有様だったが、一方の日本軍は兵力は陸戦隊5000人程度とは言え、装甲車や機関銃などの充実した装備に加え、黄浦江上からの艦砲射撃や空母(加賀、龍驤、鳳翔)発進の攻撃機などで圧倒的な機械力を備えていた。中国軍は善戦したものの、陸戦隊の撃破に至らず8月23日になって日本陸軍の増援部隊(第3師団、第11師団)が到着すると戦場は上海北方の長江沿岸に移った。