1937年

第四話 雁門関待ち伏せ攻撃

第四話 雁門関待ち伏せ攻撃 2014-09-12 17:03:23 1937年10月18日、中国共産党が指導する八路軍第120師358旅716団の主力部隊が山西省にある雁門関以南の道路両側の高地で、大同と代県の間を往復する日本軍の運輸隊を待ち伏せ攻撃し、忻口を進攻する敵の後方の…

第三話 平型関の戦いに関する説明

第三話 平型関の戦いに関する説明 2014/9/11 13:43 1937年9月中、下旬、津浦鉄道、平漢鉄道に沿って南下した日本軍は、それぞれ河北省の滄州、保定などを占領した。平綏鉄道に沿って進んだ日本軍は山西省北部に入り、天鎮、広霊、大同を占領した。閻鍚山が率…

第二話 八一三淞滬会戦

第二話 八一三淞滬会戦 2014/9/10 15:40 七・七事変(盧溝橋事変)発生後、日本海軍が再び上海地区で挑発・挑戦した。1937年8月9日、大山勇夫海軍中尉など二人が車に乗って上海虹橋空港に乱入して挑発したため、駐屯する軍隊の保安隊に射殺された。日本軍は…

第一話 七・七事変(盧溝橋事変)

第一話 七・七事変(盧溝橋事変) 2014/9/9 16:17 1937年7月7日夜、華北に駐屯していた日本軍が、中国第二十九軍の守備エリア・盧溝橋付近でいわゆる軍事演習を行った。その後、兵士1人が行方不明になったのを口実に日本軍は北平南西部にある宛平城内の捜索…

廬山談話

1937年7月17日、蒋介石は廬山談話(いわゆる「最後の関頭」演説)を発表。 抗日全軍将兵に告ぐ 蒋介石 抗日全軍将兵同志諸士! 今次の蘆溝橋事件に際し、日本軍は卑劣極まる欺瞞的手段によつて我が天津及び北平を占拠し、我が同胞民衆を殺害したが、我が国に…

日中戦争の主な戦闘

1937年8月〜11月 第二次上海事変 1937年9月〜11月 太原会戦 1937年12月 南京攻防戦 1937年12月〜1938年5月 徐州会戦 1938年6月〜10月 武漢会戦 1939年3月〜5月 南昌会戦 1939年4月〜5月 随棗会戦 1939年9月〜10月 第一次長沙会戦 1939年12月〜1940年1月 冬季…

第一戦区の概略

1937年8月 河北省、山東省の日本軍に占領されていない地域を主要な戦区範囲として成立。戦区司令長官には当初、蒋介石が兼務したが第二次上海事変が激化すると蒋介石は第二次上海事変に専念せざるを得ず、戦区司令長官を程潜*1に交代する。 戦区麾下には、宋…

平型関の戦闘

日本軍は北平、天津を占領したのち、華北地区への大規模進攻を意図した。1937年9月、日本軍第5師団は山西省の渾源、霊丘に向けて進攻し、平型関・茹越口の要衝を突破しようとした。八路軍第115師団は、山西省東北の抗日前線に転戦せよとの命令を受け、林彪、…

渡洋爆撃・第二次上海事変における日本軍機の損害

1937年8月14日 この日、上海方面は台風による悪天候。 所属 離陸地 指揮官 機種 出撃機数 攻撃目標 実際の攻撃 損害 鹿屋航空隊 台北 新田慎一少佐 96式陸攻 9機 杭州 杭州 ※ 鹿屋航空隊 台北 浅野楠太郎少佐 96式陸攻 9機 広徳 筧橋、喬司 ※ ※:新田隊、浅…

平型関関連

八路軍、平型関の戦い 1937年 - 1937年9月25日、八路軍第115師は山西省平型関で、旧日本軍第5師団第21旅団の一部部隊との激戦を繰り広げた。この戦闘により、第115師は旧日本軍兵士1千人余りを殲滅。戦利品として歩兵銃1千丁以上、機関銃20丁以上を入手し、…

劉汝明と第68軍の戦い1

宋哲元の第29軍麾下として第143師を率い察哈爾省をおさえていた劉汝明は、北平陥落後の8月上旬、南口で北平からの日本軍と交戦する第13軍や第17軍とは別に、張家口の防衛と張北の奪回作戦を行っている。これと連動して騎兵第1軍(趙承綬)と第7集団軍(傳作…

南口戦役における中国軍作戦兵力及び損失

南口戦役における1937年8月8日から26日までの中国軍の参加兵力及び損失は以下の通り。 部隊番号 兵力 備考 第13軍(第4師、第89師) 28000 1935年度調整師 第17軍(第21師、第84師) 14000 編成装備不統一 第94師 5000-6000 第13軍に協力 第72師 6000 傳作義…

南京事件と第6師団に関連する新聞記事

第6師団と言えば、南京事件当時の師団長谷寿夫は戦後、南京軍事法廷で有罪とされ死刑となっている。 実態としては、第16師団の関与の方が酷かったと言われ、谷はスケープゴートにされた感があるものの全く関与していないとは言い難いだろう。 軍都の風景2 …

戦時中の暴力団

37年、《日中戦争》が勃発するとともに、同年、政府は「国民精神総動員運動」を起こし、戦争遂行のために挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を訴えた。さらに、40年、政党解党によって〈大政翼賛会〉が設立されるに至って、無法地帯での大陸ゴロを除いて、もはや…

戦前の暴力団

32年、山口登(31)は田岡一雄(20)を子分とした。また、彼は先代同様に浪花節のファンであったので、この景気回復とナショナリズムに合せて、新たな資金源として娯楽的な浪曲興行を考え、33年には山口組興行部を作った。さらに、翌34年、彼は吉本興業の創…

支那駐屯軍司令官による7月26日の最後通牒

1937年7月25日深夜から26日朝にかけて起きた郎坊事件を契機として、日本軍は宋哲元の第29軍に対して7月28日正午を期限とする最後通牒を発した*1。この強硬な最後通牒は、対中強硬派の新任*2支那駐屯軍司令官である香月清司中将が発したものである。 香月司令…

郎坊事件

中国側 当時、天津を含む北京以南から天津にかけての鉄道沿線を警備していたのは、第29軍(宋哲元)第38師(張自忠)であり、鉄道沿線上の町・郎坊に駐屯していたのは、劉振三の第113旅である。 日本側 郎坊には本来日本軍は展開する権限を持っていない。し…

第29軍の兵力

師団名 長 麾下 兵力 第37師 馮治安 4個旅(109旅、110旅、111旅、独立25旅)、特務団 約15750人 第38師 張自忠 4個旅(112旅、113旅、114旅、独立26旅)、特務団 約15400人 第132師 趙登禹 3個旅(1旅、2旅、独立27旅、独立28旅)、特務団 約15000人 第143…

南京路事件(1937年12月3日)

上海が陥落して約一ヵ月後、日本陸軍は上海租界内で示威行進を強行した。アメリカは租界内での行進を止めるよう外交ルートで日本に求めたが松井石根軍司令官の強い希望により斥けられた。参考:クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件…

通州事件時の日本軍守備隊兵力

部隊名 長 広中一成の記載*1 寺平忠輔の記載*2 通州兵站司令部 辻村憲吉中佐 2人 - 山田自動車部隊 山田正大尉 53人 50人 通州警備隊 藤尾心一中尉 49人 40人 通州憲兵分遣隊 松村清准尉 7人 (その他合わせて)20人 病馬収容班 - 5人 - 野戦倉庫員 - 2人 - …

通州事件犠牲者の状況

日本総領事館警察通州分署の事件直後の調査によると、1937年7月29日の通州事件における犠牲者は、内地人*1208人中114人死亡、鮮人*2213人中111人死亡、合計で225人が死亡している。 この他に、支那駐屯軍麾下の通州守備隊や憲兵隊があり、事件当時通州にあっ…

通州城新南門外 宝通寺の戦闘(1937年7月27日)

日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の首都・通州は北京の東方約10キロにある小さな都市である。通州は1935年の塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の境界線上に位置し、城内及び城外南東部には冀東政府保安隊が駐屯しており、城外南西部の宝通寺には冀察…

通州事件の報道

通州事件とは、1937年7月29日に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府所属の保安隊が反乱を起こし、日本軍守備隊及び冀東政府関連施設を攻撃した事件を指し、その際日本人居留民にも多くの犠牲者が出ている。 事件直後の8月には、日本陸軍は通州事件をプロパ…

通州事件に言及した書籍

通州事件は、1937年11月29日午前2〜4時*1から開始された冀東防共自治政府*2所属の保安隊の反乱に伴い発生した通州在住の日本人・朝鮮人に対する暴行・殺傷事件である。 歴史修正主義者の中村粲や東中野修道によって未だに反中プロパガンダとして利用されてい…

大山事件に対する石射猪太郎の感想

1937年8月10日の石射猪太郎日記に以下の記載がある。 8月10日 ○川越大使高宗武と会見、打診したのはよけれども船津を阻止して高との話をはぐらかしてしまったのは誠に遺憾だ。スキを見せねば打ち込んでこぬ、その工作のためにやった船津だったのに。 ○昨…

クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件

歴史修正主義者である東中野修道が「南京「虐殺」研究の最前線」で、南京大虐殺否定論に利用したクロード・ファレールの記述であるが、同様の記述は「アジアの悲劇」(1939年訳)にも存在する。 東中野修道が利用した東亜同文会調査編纂部の雑誌「支那」は、…

蒋介石秘録に記載された南京事件

1976年にサンケイ出版から出版された「蒋介石秘録12日中全面戦争」は、出版の前年1975年に死去した蒋介石の伝記である。蒋介石の自述などを基に構成されている。 出版の目的としては、日本国内における反中プロパガンダが考えられる。国連での代表権を失い…

大山勇夫中尉事件は死を覚悟した挑発行動?

こういう話がある。 開会挨拶をした早稲田九条の会代表委員武藤徹さん( 83歳・元都立戸山高校数学教師)は東京帝國大学数学科1年生の時、陸軍参謀本部第三部(情報担当)が疎開した長野県下諏訪に勤労動員学徒として昭和20年5月3日から8月15日ま…

クロード・ファレールによる大山事件「証言」の誤り

クロード・ファレールが大山事件の現場を取材していないことは以前指摘したとおり。クロード・ファレールは大山事件から6ヶ月後に来日し、日本政府の計らいで1938年の朝鮮・満州・中国を訪問している。 著名な作家を招待し、大名旅行で接待し、日本の正当性…

大山勇夫中尉と斉藤与蔵一等水兵の死体検案書と死亡時の状況

大山事件の翌1937年8月10日に、日本海軍軍医少佐有馬玄と中国の法医学者孫達方が作成したと言う死体検案書が、児島襄の「日中戦争」に記載されている*1。 一、死亡者の氏名 大山勇夫 一、死亡の原因 他殺 (頭蓋骨粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、…