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「加賀」は日中戦争初戦で南京等を空爆した艦載機が発艦した空母

ヘリ護衛艦「かが」就役4隻態勢 対中潜水艦戦に威力 米戦闘機発着も可能(産経新聞 3/23(木) 7:55配信 )自衛隊の四隻目のヘリ空母「かが」が就役し対中国関連で強調されている。 しかし中国側が「かが」を警戒するのは、現在の日本の対中政策に対してだけ…

林彪の語る平型関の戦訓

全体としての平型関の戦闘は、1937年9月22日の中国軍第2戦区が防衛する平型関に対する日本軍第5師団の攻撃開始から、28日の中国軍による平型関放棄までの一連の攻防戦を意味する。 防衛の主体となったのは第2戦区隷下の第6集団軍(楊愛源)に八路軍第115師(…

上海・大山勇夫海軍中尉遭難事件(虹橋飛行場事件)の概略

1937年8月9日夕刻、上海郊外の虹橋飛行場正門前で大山勇夫海軍中尉が中国保安隊によって射殺された。大山事件という。 日本側は中国側に対し強硬に抗議し軍艦を上海に派遣して威嚇、結果として第二次上海事変が勃発するに至るが、中国側では日本軍将校が虹橋…

盧溝橋事件から通州事件・北京陥落まではどういう流れだったか

1937年7月7日、現在の北京郊外盧溝橋附近にて夜間演習中の日本軍に対して実弾発砲事件があった。日本軍の演習に反発した中国軍兵士による偶発的発砲というのが通説である。 発砲による日本軍の被害は皆無だったが、日本兵一名が一時所在不明になったことから…

南京大虐殺とはどういう事件だったか

1937年12月13日、侵攻してきた日本軍の攻撃により中華民国の首都・南京が陥落した。 南京防衛軍は崩壊し一部の部隊が日本軍の包囲網を破っての撤退に成功したが、多くは壊滅した。 南京の中国軍防衛線は南京城の城壁を最終的な防衛ラインとし、それを城外の…

上海大山中尉射殺事件の日本以外での報道2

日本国内不発表 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023890400、各種情報資料・北支事変関係情報綴(国立公文書館)」 情報委員会八・一一 情報第三号 大山事件と仏紙論調 ―同盟来電(不発表)―パリ十日発電 北支事変に対するパリ新聞の興味は茲二、三日以…

一個歩兵師団の構成の日中比較

類別 日本 中国 人員 21945人 10923人 馬匹 5849頭 -- 歩騎兵銃 9476挺 3821挺 擲弾筒 576基 243基 軽機関銃 541挺 274挺 重機関銃 104挺 54挺 野山砲 64門 16門 連隊砲・大隊砲 44門 30門 戦車 24両 0 車両 262両 0 自動貨車 266両 0 馬車 555両 0 (『中国…

第八話 南京防衛戦

第八話 南京防衛戦 2014-09-16 17:11:33 日本軍は上海を占領した後、中国の抵抗に"懲罰"を加えるため、当時中国の首都だった南京への攻撃を決めた。1937年12月1日、日本軍大本営は「大陸第8号令」を下し、華中方面軍が海軍と合同して3つのルートに分かれて南…

第七話 広陽での待ち伏せ戦

第七話 広陽での待ち伏せ戦 2014-09-15 12:32:00 1937年10月、国民党軍による太原防衛戦を支援し、日本軍の攻撃の勢いを抑制するため、八路軍第115師の林彪師長がその師と第343旅団を率いて五台地区から南下し、正太鉄道の南側で作戦している第129師と共に西…

第六話 忻口戦役

第六話 忻口戦役 2014-09-14 15:34:51 1937年9月末、日本軍第5師団や関東軍の一部が、雁門関から平型関までの内長城における中国軍の防衛線を破り、太原へ向けて進んでいた。中国第二戦区司令部は忻口地区で防衛戦を実施することを決定し、戦区部隊を右路軍…

第五話 陽明堡戦闘

第五話 陽明堡戦闘 2014-09-13 13:23:13 1937年10月中旬、命令により崞県(山西省原平市)および代県(山西省北東部の忻州市の管轄下にある県)の東側地域で側面から敵を攻撃することになった第129師先導部隊第769団は、滹沱川南岸の蘇竜口、劉家荘地区まで…

第四話 雁門関待ち伏せ攻撃

第四話 雁門関待ち伏せ攻撃 2014-09-12 17:03:23 1937年10月18日、中国共産党が指導する八路軍第120師358旅716団の主力部隊が山西省にある雁門関以南の道路両側の高地で、大同と代県の間を往復する日本軍の運輸隊を待ち伏せ攻撃し、忻口を進攻する敵の後方の…

第三話 平型関の戦いに関する説明

第三話 平型関の戦いに関する説明 2014/9/11 13:43 1937年9月中、下旬、津浦鉄道、平漢鉄道に沿って南下した日本軍は、それぞれ河北省の滄州、保定などを占領した。平綏鉄道に沿って進んだ日本軍は山西省北部に入り、天鎮、広霊、大同を占領した。閻鍚山が率…

第二話 八一三淞滬会戦

第二話 八一三淞滬会戦 2014/9/10 15:40 七・七事変(盧溝橋事変)発生後、日本海軍が再び上海地区で挑発・挑戦した。1937年8月9日、大山勇夫海軍中尉など二人が車に乗って上海虹橋空港に乱入して挑発したため、駐屯する軍隊の保安隊に射殺された。日本軍は…

第一話 七・七事変(盧溝橋事変)

第一話 七・七事変(盧溝橋事変) 2014/9/9 16:17 1937年7月7日夜、華北に駐屯していた日本軍が、中国第二十九軍の守備エリア・盧溝橋付近でいわゆる軍事演習を行った。その後、兵士1人が行方不明になったのを口実に日本軍は北平南西部にある宛平城内の捜索…

廬山談話

1937年7月17日、蒋介石は廬山談話(いわゆる「最後の関頭」演説)を発表。 抗日全軍将兵に告ぐ 蒋介石 抗日全軍将兵同志諸士! 今次の蘆溝橋事件に際し、日本軍は卑劣極まる欺瞞的手段によつて我が天津及び北平を占拠し、我が同胞民衆を殺害したが、我が国に…

日中戦争の主な戦闘

1937年8月〜11月 第二次上海事変 1937年9月〜11月 太原会戦 1937年12月 南京攻防戦 1937年12月〜1938年5月 徐州会戦 1938年6月〜10月 武漢会戦 1939年3月〜5月 南昌会戦 1939年4月〜5月 随棗会戦 1939年9月〜10月 第一次長沙会戦 1939年12月〜1940年1月 冬季…

第一戦区の概略

1937年8月 河北省、山東省の日本軍に占領されていない地域を主要な戦区範囲として成立。戦区司令長官には当初、蒋介石が兼務したが第二次上海事変が激化すると蒋介石は第二次上海事変に専念せざるを得ず、戦区司令長官を程潜*1に交代する。 戦区麾下には、宋…

平型関の戦闘

日本軍は北平、天津を占領したのち、華北地区への大規模進攻を意図した。1937年9月、日本軍第5師団は山西省の渾源、霊丘に向けて進攻し、平型関・茹越口の要衝を突破しようとした。八路軍第115師団は、山西省東北の抗日前線に転戦せよとの命令を受け、林彪、…

渡洋爆撃・第二次上海事変における日本軍機の損害

1937年8月14日 この日、上海方面は台風による悪天候。 所属 離陸地 指揮官 機種 出撃機数 攻撃目標 実際の攻撃 損害 鹿屋航空隊 台北 新田慎一少佐 96式陸攻 9機 杭州 杭州 ※ 鹿屋航空隊 台北 浅野楠太郎少佐 96式陸攻 9機 広徳 筧橋、喬司 ※ ※:新田隊、浅…

平型関関連

八路軍、平型関の戦い 1937年 - 1937年9月25日、八路軍第115師は山西省平型関で、旧日本軍第5師団第21旅団の一部部隊との激戦を繰り広げた。この戦闘により、第115師は旧日本軍兵士1千人余りを殲滅。戦利品として歩兵銃1千丁以上、機関銃20丁以上を入手し、…

劉汝明と第68軍の戦い1

宋哲元の第29軍麾下として第143師を率い察哈爾省をおさえていた劉汝明は、北平陥落後の8月上旬、南口で北平からの日本軍と交戦する第13軍や第17軍とは別に、張家口の防衛と張北の奪回作戦を行っている。これと連動して騎兵第1軍(趙承綬)と第7集団軍(傳作…

南口戦役における中国軍作戦兵力及び損失

南口戦役における1937年8月8日から26日までの中国軍の参加兵力及び損失は以下の通り。 部隊番号 兵力 備考 第13軍(第4師、第89師) 28000 1935年度調整師 第17軍(第21師、第84師) 14000 編成装備不統一 第94師 5000-6000 第13軍に協力 第72師 6000 傳作義…

南京事件と第6師団に関連する新聞記事

第6師団と言えば、南京事件当時の師団長谷寿夫は戦後、南京軍事法廷で有罪とされ死刑となっている。 実態としては、第16師団の関与の方が酷かったと言われ、谷はスケープゴートにされた感があるものの全く関与していないとは言い難いだろう。 軍都の風景2 …

戦時中の暴力団

37年、《日中戦争》が勃発するとともに、同年、政府は「国民精神総動員運動」を起こし、戦争遂行のために挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を訴えた。さらに、40年、政党解党によって〈大政翼賛会〉が設立されるに至って、無法地帯での大陸ゴロを除いて、もはや…

戦前の暴力団

32年、山口登(31)は田岡一雄(20)を子分とした。また、彼は先代同様に浪花節のファンであったので、この景気回復とナショナリズムに合せて、新たな資金源として娯楽的な浪曲興行を考え、33年には山口組興行部を作った。さらに、翌34年、彼は吉本興業の創…

支那駐屯軍司令官による7月26日の最後通牒

1937年7月25日深夜から26日朝にかけて起きた郎坊事件を契機として、日本軍は宋哲元の第29軍に対して7月28日正午を期限とする最後通牒を発した*1。この強硬な最後通牒は、対中強硬派の新任*2支那駐屯軍司令官である香月清司中将が発したものである。 香月司令…

郎坊事件

中国側 当時、天津を含む北京以南から天津にかけての鉄道沿線を警備していたのは、第29軍(宋哲元)第38師(張自忠)であり、鉄道沿線上の町・郎坊に駐屯していたのは、劉振三の第113旅である。 日本側 郎坊には本来日本軍は展開する権限を持っていない。し…

第29軍の兵力

師団名 長 麾下 兵力 第37師 馮治安 4個旅(109旅、110旅、111旅、独立25旅)、特務団 約15750人 第38師 張自忠 4個旅(112旅、113旅、114旅、独立26旅)、特務団 約15400人 第132師 趙登禹 3個旅(1旅、2旅、独立27旅、独立28旅)、特務団 約15000人 第143…

南京路事件(1937年12月3日)

上海が陥落して約一ヵ月後、日本陸軍は上海租界内で示威行進を強行した。アメリカは租界内での行進を止めるよう外交ルートで日本に求めたが松井石根軍司令官の強い希望により斥けられた。参考:クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件…

通州事件時の日本軍守備隊兵力

部隊名 長 広中一成の記載*1 寺平忠輔の記載*2 通州兵站司令部 辻村憲吉中佐 2人 - 山田自動車部隊 山田正大尉 53人 50人 通州警備隊 藤尾心一中尉 49人 40人 通州憲兵分遣隊 松村清准尉 7人 (その他合わせて)20人 病馬収容班 - 5人 - 野戦倉庫員 - 2人 - …

通州事件犠牲者の状況

日本総領事館警察通州分署の事件直後の調査によると、1937年7月29日の通州事件における犠牲者は、内地人*1208人中114人死亡、鮮人*2213人中111人死亡、合計で225人が死亡している。 この他に、支那駐屯軍麾下の通州守備隊や憲兵隊があり、事件当時通州にあっ…

通州城新南門外 宝通寺の戦闘(1937年7月27日)

日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の首都・通州は北京の東方約10キロにある小さな都市である。通州は1935年の塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の境界線上に位置し、城内及び城外南東部には冀東政府保安隊が駐屯しており、城外南西部の宝通寺には冀察…

通州事件の報道

通州事件とは、1937年7月29日に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府所属の保安隊が反乱を起こし、日本軍守備隊及び冀東政府関連施設を攻撃した事件を指し、その際日本人居留民にも多くの犠牲者が出ている。 事件直後の8月には、日本陸軍は通州事件をプロパ…

通州事件に言及した書籍

通州事件は、1937年11月29日午前2〜4時*1から開始された冀東防共自治政府*2所属の保安隊の反乱に伴い発生した通州在住の日本人・朝鮮人に対する暴行・殺傷事件である。 歴史修正主義者の中村粲や東中野修道によって未だに反中プロパガンダとして利用されてい…

大山事件に対する石射猪太郎の感想

1937年8月10日の石射猪太郎日記に以下の記載がある。 8月10日 ○川越大使高宗武と会見、打診したのはよけれども船津を阻止して高との話をはぐらかしてしまったのは誠に遺憾だ。スキを見せねば打ち込んでこぬ、その工作のためにやった船津だったのに。 ○昨…

クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件

歴史修正主義者である東中野修道が「南京「虐殺」研究の最前線」で、南京大虐殺否定論に利用したクロード・ファレールの記述であるが、同様の記述は「アジアの悲劇」(1939年訳)にも存在する。 東中野修道が利用した東亜同文会調査編纂部の雑誌「支那」は、…

蒋介石秘録に記載された南京事件

1976年にサンケイ出版から出版された「蒋介石秘録12日中全面戦争」は、出版の前年1975年に死去した蒋介石の伝記である。蒋介石の自述などを基に構成されている。 出版の目的としては、日本国内における反中プロパガンダが考えられる。国連での代表権を失い…

大山勇夫中尉事件は死を覚悟した挑発行動?

こういう話がある。 開会挨拶をした早稲田九条の会代表委員武藤徹さん( 83歳・元都立戸山高校数学教師)は東京帝國大学数学科1年生の時、陸軍参謀本部第三部(情報担当)が疎開した長野県下諏訪に勤労動員学徒として昭和20年5月3日から8月15日ま…

クロード・ファレールによる大山事件「証言」の誤り

クロード・ファレールが大山事件の現場を取材していないことは以前指摘したとおり。クロード・ファレールは大山事件から6ヶ月後に来日し、日本政府の計らいで1938年の朝鮮・満州・中国を訪問している。 著名な作家を招待し、大名旅行で接待し、日本の正当性…

大山勇夫中尉と斉藤与蔵一等水兵の死体検案書と死亡時の状況

大山事件の翌1937年8月10日に、日本海軍軍医少佐有馬玄と中国の法医学者孫達方が作成したと言う死体検案書が、児島襄の「日中戦争」に記載されている*1。 一、死亡者の氏名 大山勇夫 一、死亡の原因 他殺 (頭蓋骨粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、…

大山事件発生時にクロード・ファレールは上海にはいなかった

歴史修正主義者である東中野修道が反中プロパガンダでクロード・ファレールの随筆を引用して以降、ネトウヨにより頻繁に利用されている記述が、クロード・ファレールによる大山事件の描写である。 中には、クロード・ファレールが”証言”しているとまで言って…

ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における大山事件

ハリエット・サージェントは1954年生まれのイギリス人女性コラムニストである。 父であるサー・パトリック・サージェントが文化大革命直後の上海に訪れた際に同行し、上海についての本を書くことになった。「上海 魔都100年の興亡」は歴史の本ではないが、こ…

大山中尉殺害事件における保安隊員の死因

大山事件で死亡した中国側保安隊員*1の死因については、中国側は日本側の発砲によるとし、日本側は同士討ちだと主張している。 酷い反中プロパガンダになると、中国側が”わざと”同僚を殺害した*2、あるいは、死刑囚を連れてきた*3、というものまであるが、そ…

日本海軍陸戦隊西部派遣隊本部の場所

1937年8月9日に殺害された大山勇夫海軍中尉は、上海特別陸戦隊第一大隊第一中隊中隊長であった。この第一中隊は上海西部の日本資本の紡績工場地帯の警備のために上海西部に派遣されていた。 前回の記事では、西部派遣隊の本部がどこにあったかわからなかった…

8月9日に大山勇夫中尉がモニュメント路(碑坊路)を通行した理由

1937年8月9日、日本海軍の大山勇夫中尉は、斉藤与蔵一等水兵の運転する自動車で上海西部のモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)を通り、そこで殺害された。 モニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は、中国空軍の軍専用飛行場である虹橋飛行場のすぐ東側を南…

大山事件に関する外務省の対外発表(8月11日)

外務省情報部長が事件2日後の1937年8月11日に公表した事件の説明だが、当然日本には一切非がなかったという主張になっている。実際にはこれらの説明には矛盾も多く、信頼性には疑問符がつくのだが、これをそのまま鵜呑みにして大山事件を日中戦争正当化や対…

上海大山中尉射殺事件の日本以外での報道

大山事件に関しては、当然ながら海外でも報道されている。中国側では南京放送が報道している。発表ソースは淞滬警備司令部であろうが、日本の同盟通信や朝日新聞が海軍省発表に依拠しているのと同じと言える。 その他、第三国メディア*1としてはロイター通信…

「各社特派員決死の筆陣支那事変戦史」で見る大山事件関連報道

反日ワクチンなるネトウヨサイト*1と同じくRed Foxなるネトウヨサイト*2で流布されている大山事件関連の日本特派員記事がある。あちこちでコピペされて使用されているが、この二つのサイトについては出典が明記されていた*3。 1937年12月に発行された「各社…

上海大山事件関連の朝日新聞報道(1937年8月10日)2

上海大山事件関連の朝日新聞報道(1937年8月10日)1 - 15年戦争史の続き 保安隊なお密集 昨深更・海軍省の発表 海軍では大山中尉射殺事件に関し十日午前一時海軍省副官談の形式で左の如く発表した。 第三艦隊参謀長よりの来電によれば 一、九日午後六時半頃…