1933年

戦前の暴力団

32年、山口登(31)は田岡一雄(20)を子分とした。また、彼は先代同様に浪花節のファンであったので、この景気回復とナショナリズムに合せて、新たな資金源として娯楽的な浪曲興行を考え、33年には山口組興行部を作った。さらに、翌34年、彼は吉本興業の創…

Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘

Wikipediaの「塘沽協定*1」のページには山海関事件に関する項目がある。 1933年1月1日〜3日の第三次山海関事件の発端については、日本軍守備隊長落合甚九郎の陰謀説が有力である。そして、この事件により山海関城を完全に抑えた日本軍は、直後に始まる熱河侵…

第三次山海関事件についての記述

1933(昭和8)年 山海関事件。 山海関守備隊長落合甚九郎少佐謀略。山海関憲兵分遣隊裏庭、日本守備隊派出所前鉄道線路上に手榴弾投擲。3日、夜明け、陸海軍協同攻撃。午後2時、山海関占領。張学良・何桂国に陳謝及び山海関の緩衝地帯化を要求。山海関(万里…