1932年

日本支配下の琿春

琿春は中国吉林省延辺朝鮮族自治州に属する。朝鮮に隣接し朝鮮系住民も多く1910年の韓国併合後は朝鮮独立運動、特に武装闘争の根拠地となった。 それ故に日本による討伐・弾圧が頻繁に行われた。 1931年9月の満州事変後、中国東北地方が日本の傀儡国となり、…

満州事変勃発に伴う日本軍の派兵経過

満州事変勃発時 関東軍(司令官:本庄繁、参謀長:三宅光治) 駐箚師団:第2師団(師団長:多門二郎、参謀長:上野良丞) 第3旅団(歩兵第4連隊、歩兵第29連隊) 第15旅団(歩兵第16連隊、歩兵第30連隊) 騎兵第2連隊(本部+第1中隊) 野砲兵第2連隊(本部…

右翼団体 上海青年同志会 光村芳蔵に関する記事

「上海青年同志会の正体」関連。 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(110-003) 大阪朝日新聞 1932.1.21(昭和7) 抗日会の解散を要求 村井総領事から 【上海特電二十日発】我日蓮僧らに対する支那人の襲撃事件に対し村井総領事は二十日午後五時上海市長…

第一次山海関事件に関する「蒋介石秘録」の記述

第一回目の衝突は十月一日におきた。同日午後五時ごろ、「満州国」警察十数人が、「あやしい者が逃げ込んだ」と理由をつけて、山海関の東羅城へ押しかけてきた。中国軍の哨兵は城門を閉鎖して侵入を阻止した。 すると別動隊十人が南門から城内に乱入、東羅城…

第二次山海関事件に関する「蒋介石秘録」の記述

装甲列車で強行突破 第二回目の衝突は十二月八日である。この日午後十時、こんどは関東軍第八師団の装甲列車が突然、山海関の長城の切れ口まで進出し、第九旅司令部付近目がけて四発の砲弾を発射した。装甲列車はさらに南進して関内を侵し、石河の鉄橋付近ま…

戦前の暴力団

32年、山口登(31)は田岡一雄(20)を子分とした。また、彼は先代同様に浪花節のファンであったので、この景気回復とナショナリズムに合せて、新たな資金源として娯楽的な浪曲興行を考え、33年には山口組興行部を作った。さらに、翌34年、彼は吉本興業の創…

民国日報に記載された三友実業社襲撃事件

二〇日の朝、日本人のいわゆる浪人七〇人余りが先導し、その後から陸軍のタンク四輌が三友工場に向った。途中、制止しようとした公共租界中国人巡査田潤生を殺害した。また通報しようとした中国人巡査朱伍蘭の頭部を刺し、手指を断ち切った。さらに駐在所に…

児島襄による第一次山海関事件の記述

第一次山海関事件について記述した資料はあまり見当たらない。 児島襄の「日中戦争2」でもわずかに以下の記述があるのみである。 山海関では、じつは前年*1の十月一日に、「天下第一関」の扁額をかかげた城門に日本側警察隊員がのぼって射殺された事件、十…

第二次山海関事件の概略

「山海関事件」は、1933年1月1日に起きた日本軍第8師団による山海関占領事件*1がよく知られているが、これは第三次山海関事件とされる。 昭和七年十月一日、山海関において、満州国国境警察隊員と中国軍兵士との間で紛争が起こった(第一次山海関事件)。こ…

ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における第一次上海事変

開戦(1932年1月29日) P271-272の記述。 その晩十一時、四百人の日本の海軍陸戦隊が虹口の江湾路の本部を出て、十八台の軍用トラックに乗り込んだ。街頭のほの明りのなかで、日本の民間人の一群が歓声をあげて彼らを見送った。 日本の軍用トラックと装甲車…

上海停戦協定第2条により中国軍の進入が制限される地域

1932年の第一次上海事変の停戦協定で、上海市街地北方の広い地域が非武装地帯とされた。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第…

1932年1月22日の上海の政治状況

中国側(抗日救国会、市党部、工業連合会、北四川路商人連合会など) 20日の日本人居留民による三友実業社放火事件、工部局中国人警官殺傷事件、北四川路暴動、さらに21日の居留民団の脅迫じみた声明を受け、中国側の上海各界抗日救国会、市党部、工業連合会…

1932年1月21日の上海の政治状況

日本人居留民 日本人居留民デモ隊*1が北四川路で横暴の限りを尽くした翌1月21日、居留民団はさらに過激な声明を出した。 吾人は尊き生命の傷害を受け財産の掠奪も蒙り絶大なる通商の迫害に困窮し、尚且つこれ等権益の侵害に眠る帝国政府の無気力に対しては洵…

日本人居留民の反中デモ及び暴動

1932年1月18日の中国人による日本人僧侶殺傷事件、1月20日の日本人右翼による中国人経営の三友実業社工場襲撃放火事件及び上海共同租界工部局中国人警官殺傷事件。 これらの事件後の1932年1月20日、反中感情に染まった日本人居留民は大規模なデモを起こして…

戦争賛美に転じた与謝野晶子

与謝野晶子と言えば日露戦争に出征した弟を思い、「君死にたまふことなかれ」という反戦歌を書いたことで知られているが、この上海事変の頃には天皇崇拝に傾倒し、戦争賛美に転じている。 「君死にたまふことなかれ」は1904年9月に「明星」に発表された歌で…

満州事変開始以後の上海での排日侮日行動

第一次上海事変以前に上海の日本人居留民が中国人から迫害を受けていたという主張がある。 以下は外務省の記録である。 期間 暴行迫害侮辱件数 被害者数(内女性) 学生被害者 9月18日〜10月18日 198件 287人(48人) 394人 10月19日〜11月18日 149件 217人 …

上海青年同志会の正体

以前、テロ活動で上海事変を煽った青年同志会は大陸浪人か右翼団体の類であろうと書いたが、それが事実であることを確認した。三友実業社襲撃放火事件の首謀者である上海青年同志会会長の光村芳蔵は、当時46歳。本籍地は大阪である。 第一次上海事変勃発直後…

上海三友実業公司焼討事件に日本軍憲兵大尉は参加したか?

前回記載しなかったが、右翼団体の上海青年同志会による三友実業公司襲撃放火事件は、日本軍憲兵大尉が指揮したという説がある。情報の大本は田中隆吉自身の証言*1だが、そこでは「当時、上海に日本人青年同志会というのがあったんですが、それをちょうど上…

日本山妙法寺と田中隆吉・川島芳子*1の謀略の関連

以前、以下のように書いた。 しかし、おそらく日本山妙法寺も謀略に加担したのではないかという主張がどこかにあったのだろう。それで「それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。」と言ったと思われる…

1932年2月1日時点での各国駐屯軍、義勇隊の概数

国 人数*1 1月30日時点で人数*2 日本 3920 約2800 アメリカ 2750 1264 イギリス 3850 2086 フランス 960 1008 イタリー 160 160 義勇隊 1746 - アメリカ、イギリスの兵力が大きく違うのは、他のアジア地域にある海兵隊を上陸させたためか。アメリカはフィリ…

上海三友実業公司焼討事件

村井総領事の抗議 1932年1月18日夕方の日本人僧侶襲撃事件*1を受け翌19日午前、日本総領事・村井倉松は市政府に行き、不在の呉鉄城市長に代わって応対した兪秘書長に抗議した。 臼井勝美の「満州事変」によると兪秘書長の対応は以下の通り。 事件発端の曲非…

上海日本人僧侶襲撃事件についての追記

TBで臼井勝美氏の「満州事変」での記述について情報をもらったので前の記事に追記する意味でUP。 一月十八日、日本山妙法寺の僧侶天崎啓山、同水上秀雄とその信徒後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村国吉の五名は、寒中勤行のため団扇太鼓を打ち鳴らしながら、共同租…

日本人僧侶殺害事件

1932年1月18日午後4時過ぎ、上海楊浦の馬玉山路(現・双陽路)にある三友実業社というタオル工場の前で、日本人の日蓮僧と信者5名が三友実業社の従業員らの暴徒に襲撃され死傷した事件。 襲われた日本人は、僧・天崎啓昇(日本山妙法寺の上海布教主任)、水…

第19路軍の上海付近移駐

第一次上海事変で活躍した蔡廷鍇の第19路軍がなぜ上海付近にいたかについて、日本側は1932年当時から中国軍が租界攻撃をもくろんでいるとのデマを流し、現在においてもこれを信じる者がいるほどである。 Wikipediaの「第一次上海事変」では以下のように記述…

第一次上海事変における損害(追記)

中国側 中国民間人の損害については、中国政府発表の公式報告、中国軍の損害については第19路軍司令官・蔡廷鍇による報告による*1。ただし、1934年時点の情報に基づく。 分類 死者 負傷者 行方不明 計 第19路軍・第5軍 将校 214 677 891 同上 下士官兵 4060 …