盧溝橋事件

東京裁判判決を読む(Chapter VIII Conventional War Crimes (Atrocities) )4

『国際法上の戦争ではない』『戦争捕虜ではなく匪賊である』『捕らえた中国軍兵士を即時処刑しても問題ない』という日本側の認識が盧溝橋事件(The Marco Polo Bridge Incident)後も変わらなかったことを示すのがこの節である。 「The Policy Remained Unch…

盧溝橋事件から通州事件・北京陥落まではどういう流れだったか

1937年7月7日、現在の北京郊外盧溝橋附近にて夜間演習中の日本軍に対して実弾発砲事件があった。日本軍の演習に反発した中国軍兵士による偶発的発砲というのが通説である。 発砲による日本軍の被害は皆無だったが、日本兵一名が一時所在不明になったことから…

第一話 七・七事変(盧溝橋事変)

第一話 七・七事変(盧溝橋事変) 2014/9/9 16:17 1937年7月7日夜、華北に駐屯していた日本軍が、中国第二十九軍の守備エリア・盧溝橋付近でいわゆる軍事演習を行った。その後、兵士1人が行方不明になったのを口実に日本軍は北平南西部にある宛平城内の捜索…

支那駐屯軍司令官による7月26日の最後通牒

1937年7月25日深夜から26日朝にかけて起きた郎坊事件を契機として、日本軍は宋哲元の第29軍に対して7月28日正午を期限とする最後通牒を発した*1。この強硬な最後通牒は、対中強硬派の新任*2支那駐屯軍司令官である香月清司中将が発したものである。 香月司令…

郎坊事件

中国側 当時、天津を含む北京以南から天津にかけての鉄道沿線を警備していたのは、第29軍(宋哲元)第38師(張自忠)であり、鉄道沿線上の町・郎坊に駐屯していたのは、劉振三の第113旅である。 日本側 郎坊には本来日本軍は展開する権限を持っていない。し…

支那駐屯軍の増兵

1936年4月、日本軍はそれまで歩兵10個中隊(北京:2個、天津:8個)、砲兵1個中隊、工兵1個小隊の約1770人だった支那駐屯軍の兵力を約3倍に増強することを決定した。日本軍にとっては、中央を無視する傾向の強い関東軍の華北工作を牽制するため支那駐屯軍を…

盧溝橋事件

1937年7月7日夜、北平郊外盧溝橋で夜間演習中の日本軍(支那駐屯歩兵第1連隊第8中隊)に対し中国側陣地からの発砲があった。日本軍兵士一名の所在が確認できなかったことから俄かに緊張が高まり、支那駐屯軍歩兵第一連隊の牟田口連隊長は中国側に攻撃を一木…