山海関事件

第一次山海関事件に関する「蒋介石秘録」の記述

第一回目の衝突は十月一日におきた。同日午後五時ごろ、「満州国」警察十数人が、「あやしい者が逃げ込んだ」と理由をつけて、山海関の東羅城へ押しかけてきた。中国軍の哨兵は城門を閉鎖して侵入を阻止した。 すると別動隊十人が南門から城内に乱入、東羅城…

第二次山海関事件に関する「蒋介石秘録」の記述

装甲列車で強行突破 第二回目の衝突は十二月八日である。この日午後十時、こんどは関東軍第八師団の装甲列車が突然、山海関の長城の切れ口まで進出し、第九旅司令部付近目がけて四発の砲弾を発射した。装甲列車はさらに南進して関内を侵し、石河の鉄橋付近ま…

Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘

Wikipediaの「塘沽協定*1」のページには山海関事件に関する項目がある。 1933年1月1日〜3日の第三次山海関事件の発端については、日本軍守備隊長落合甚九郎の陰謀説が有力である。そして、この事件により山海関城を完全に抑えた日本軍は、直後に始まる熱河侵…

児島襄による第一次山海関事件の記述

第一次山海関事件について記述した資料はあまり見当たらない。 児島襄の「日中戦争2」でもわずかに以下の記述があるのみである。 山海関では、じつは前年*1の十月一日に、「天下第一関」の扁額をかかげた城門に日本側警察隊員がのぼって射殺された事件、十…

第三次山海関事件についての記述

1933(昭和8)年 山海関事件。 山海関守備隊長落合甚九郎少佐謀略。山海関憲兵分遣隊裏庭、日本守備隊派出所前鉄道線路上に手榴弾投擲。3日、夜明け、陸海軍協同攻撃。午後2時、山海関占領。張学良・何桂国に陳謝及び山海関の緩衝地帯化を要求。山海関(万里…

第二次山海関事件の概略

「山海関事件」は、1933年1月1日に起きた日本軍第8師団による山海関占領事件*1がよく知られているが、これは第三次山海関事件とされる。 昭和七年十月一日、山海関において、満州国国境警察隊員と中国軍兵士との間で紛争が起こった(第一次山海関事件)。こ…